レ・ミゼラブル
LES MISERABLES
第二部 コゼット
ビクトル・ユーゴー Victor Hugo
豊島与志雄訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)石盤《スレート》屋根の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その時|扉《とびら》が

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「宛+りっとう」、第4水準2−3−26]形《わんけい》の

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)たび/\
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   第一編 ワーテルロー



     一 ニヴェルから来る道にあるもの

 一八六一年五月のある麗しい朝、一人の旅人、すなわちこの物語の著者は、ニヴェルからやってきてラ・ユルプの方へ向かっていた。彼は徒歩で、両側に並み木の並んでる石畳の広い街道を進んでいった。街道は立ち並んで大波のようになってる丘の上を曲がりくねって、あるいは高くあるいは低く続いていた。彼はもうリロアおよびボア・センニュール・イザアクを通り過ぎていた。西の方に、ブレーヌ・ラルーの花びんを逆さにしたような石盤《スレート》屋根の鐘楼をながめた。ある丘の上の森を過ぎ、それから、ある別れ道の角に、旧関門第四号[#「旧関門第四号」に傍点]としるしてある虫の食った標柱の立ってる側にある、一軒の飲食店を通り過ぎた。その飲食店の正面には、「万人歓迎[#「万人歓迎」に傍点]、素人コーヒー店[#「素人コーヒー店」に傍点]、エシャボー[#「エシャボー」に傍点]」としるしてあった。
 その飲食店から約八分の一里ほどきたころ、彼はある小さな谷間の底に達した。街道の土堤《どて》の中に作られたアーチの下を、一条の水が流れていた。道の一方の谷間には一面に濃緑のまばらな木立ちがあったが、道の他方では遠く牧場の方までその木立ちがひろがって、ずっとブレーヌ・ラルーの方まで不規則に延びている様はいかにもみごとだった。
 そこに路傍の右手に一軒の宿屋があった。入り口には四輪の荷車があり、葎《ホップ》の茎の大きな束や、鋤《すき》や、生籬《いけがき》のそばに積んである乾草など、そして四角な穴には石灰がけむっており、藁戸《わらど》の古い納屋のそばにははしごが置いてあった。一人の若い娘が畑で草を取っていた。たぶんケルメス祭の野外の見世物か何かのであろうが、大きな黄色い広告の旗がその畑の中に風にひるがえっていた。宿屋の角の所に、一群のあひるの泳いでいる池のそばに、よく石の敷いてない小道が叢《くさむら》の中に走っていた。旅人はその小道にはいった。
 たがいちがいの煉瓦《れんが》の急な切阿《きりずま》が上についてる十五世紀式の壁に沿って百歩ばかりも行くと、彼は大きな弓形の石門の前に出た。その門は厳《おごそ》かなルイ十四世式の建築であって、直線式の拱基《きょうき》欄干がついており、平たい二つの円形浮き彫りが両側についていた。いかめしい建物正面が門の上にそびえていた。建物正面と直角をなす一つの壁が、ほとんど門まで接していて、そのそばに急な直角をこしらえていた。門の前の野原には三つの耙《まぐわ》がころがっていて、その間から入り交じって種々な五月の花が咲き出ていた。門はしまっていた。その扉《とびら》はこわれかかった観音開きで、さびた古い金槌《かなづち》がそえてあった。
 太陽はうららかで、木々の枝は、風のためというよりもむしろ小鳥の巣から来るらしい静かな五月の揺らぎをしていた。一羽のりっぱな小鳥が、たぶん恋をしているのであろう、大きな木の中で夢中にさえずっていた。
 門の左側の支柱の下の方の石に、冠頂石《かなめいし》の穴のようなかなり大きい丸い穴があったので、旅人は身をかがめてそれをながめてみた。その時|扉《とびら》が開いて一人の百姓女が出てきた。
 彼女は旅人を見、また彼がながめているものを認めた。
「そんな穴をあけたのはフランスの大砲の弾丸《たま》ですよ。」と女は彼に言った。
 そして女はまた付けたした。
「門の上の方の釘の所にも穴がありましょう。あれはビスカイヤン銃の弾丸《たま》の穴です。ビスカイヤンは木を打ち通せなかったのです。」
「ここは何という所です。」と旅人は尋ねた。
「ウーゴモンです。」と百姓女は答えた。
 旅人は立ち上がった。二、三歩歩き出して、籬《まがき》の上から向こうをのぞきに行った。木立ちを透かして、かなた地平線に小高い丘を認め、またその丘の上に、遠くから見ると獅子《しし》の形をしたある物を認めた。
 彼はワーテルローの戦場にきていたのである。

     二 ウーゴモン

 ウーゴモンこそは不吉なる場所であった。それは障害の初まりであり、ナポレオンと称する欧州の一大伐木者がワーテルローで出会った最初の抵抗であって、斧《おの》の打撃の下に現われた第一の節《ふし》であった。
 それは一つの城砦《じょうさい》であったが、今はもう一つの農家にすぎなくなっている。ウーゴモン(Hougomont)は、古代学者にとってはむしろユゴモン(Hugomons)というのである。その邸宅は、ヴィレル修道院に第六の采地《さいち》を寄進したあのソムレル侯ユーゴーによって建てられたものだった。
 旅人は戸を押し開き、玄関の古い馬車の横を通りぬけ、中庭にはいった。
 その中庭で第一に彼の目についたものは、十六世紀式の門だった。すべてまわりのものはこわれ落ちてしまって、一つの迫持《せりもち》らしいものをそこに止めている。記念物的なありさまは、しばしば荒廃から生まれるものである。その迫持のそばに、アンリ四世時代の様式になった拱心石がついてるも一つの門が、壁の中に開かれていて、その向こうには果樹園の樹木が見えている。門の傍《わき》には、肥料|溜《だめ》、鶴嘴《つるはし》やシャベル、二、三の車、板石と鉄の枠《わく》滑車とのついてる古井戸、はねまわってる小馬、尾を広げてる七面鳥、小さな鐘楼のついた礼拝堂、礼拝堂の壁にまつわって花を開いてる梨《なし》の木などがある。実にこの中庭こそ、ナポレオンが占領しようと夢想していた所のものである。もしその一角の土地がナポレオンの占領し得る所となっていたならば、彼はおそらく世界を得ることができたであろう。今や数羽の鶏が嘴《くちばし》でほこりを散らしている。何かうなり声も聞こえる。それは歯をむき出している大きな犬で、今やイギリス軍に代わってそこにいるのである。
 イギリス軍はそこでは実にみごとであった。クークの率いた近衛の四個中隊は、一軍団の襲撃に対して七時間そこで持ちこたえたのである。
 実測図で見るとウーゴモンは、建物や墻壁《しょうへき》を含めて、一角を欠いた不規則な四角形を呈している。その欠けた一角の所が南門であって、その門をねらい撃ちにできる壁でまもられている。ウーゴモンには入り口が二つあって、一つは城の入り口をなす南門であり、も一つは農家の入り口をなす北門である。ナポレオンはウーゴモンに対して弟のゼロームをつかわした。ギーユミノー、フォア、バシュリューの三個師団はそこに殺到し、ほとんどレイユの全軍団がそこに使用されて、そして失敗した。ケレルマンの砲弾は、その勇敢な壁面に向かってほとんどうちつくされた。ボーデュアンの旅団はウーゴモンを北方より強取せんとして成らず、ソアイの旅団はその南方をわずか突入し得たのみで、それを抜くことはできなかった。
 その中庭の南側には、農家が立ち並んでいる。そしてフランス軍にこわされた北門の一片が壁にかかっている。それは二本の横木に釘付けにされた四枚の板であって、その上にはなお攻撃の跡を認むることができる。
 フランス軍に破られた北門は、壁から下がっていた鏡板の代わりに木片がつけられていて、中庭の奥に半ば開いている。それは、中庭の北方を囲む下は石で上は煉瓦《れんが》の壁の中に、四角にあけられたものである。いずれの小作地にもあるような単純な車道門であって、粗末な板でできてる大きな二つの扉《とびら》がついている。その向こうが牧場になっている。その入り口の争奪戦は猛烈なものだった。門の竪框《たてかまち》の上には血にまみれた手のあらゆる痕跡《こんせき》がその後長く見えていた。ボーデュアンが戦死したのもそこであった。
 戦争の嵐はなおその中庭のうちになごりをとどめ、その恐ろしい様はなおそこにありありと見え、混戦の動乱の様はなおそこに化石して残っている。あるいは生きあるいは死ぬる様が彷彿《ほうふつ》として、昨日のことのようにも思われる。壁は揺らぎ、石は落ち、裂け目は音をたてている。穴は傷口である。傾き震えてる樹木は、逃走せんと身をもがいてるようである。
 その中庭は、一八一五年には今日あるよりはもっとりっぱにできていた。その後にこわされた様々な構造は、突角|堡《ほ》や稜角《りょうかく》や凸《とつ》出角などをなしていたものである。
 イギリス軍はそこに立てこもっていた。フランス軍はそこに突入したが、ふみ止まる事ができなかったのである。礼拝堂の傍《わき》に、ウーゴモン邸宅の唯一のなごりである城の一方の翼が、こわれかかってるというよりもむしろ腹をえぐられてるともいえるありさまで立っている。館《やかた》は天主閣となり、礼拝堂は防舎となった。そこで人々は互いに殄滅《てんめつ》し合った。フランス軍は、壁の後ろや納屋の上や窖《あなぐら》の下など四方から、窓や風窓や石のすき間などを通して射撃されたので、鹿柴《ろくさい》を持ってきて壁や敵に火を放った。霰弾《さんだん》は火炎をもって応戦された。
 荒廃したその翼部のうちに、鉄格子のついた窓をとおして、煉瓦《れんが》造りの本館のこわれた室々がのぞき見られる。イギリスの近衛兵はそれらの室に潜んでいた。螺旋形《らせんがた》の階段は一階から屋根下まですっかり亀裂《きれつ》して、こわれた貝殻の内部のような観を呈している。階段は二連になっている。階段のうちに包囲されて上連に追いつめられたイギリス兵は、下連の階段を切り落としてしまった。蕁麻《いらくさ》のうちに堆《うずたか》くなってる青い大きな板石がそのなごりである。十段ばかりはまだ壁についている。第一段の上には三叉《みつまた》の矛《ほこ》の形が刻まれている。登ることのできないそれらの階段はなお承口《うけぐち》のうちに丈夫についている。他の部分はちょうど歯のぬけた顎《あご》のようなありさまをしている。二本の古木がそこに立っている。一本は枯れてしまっている。一本は根もとに傷を受けながら、四月にまた青い芽を出す。一八一五年から再び階段の中に伸び初めたのである。
 両軍は礼拝堂の中でも互いに殺戮《さつりく》し合った。今は再び静かになってるその内部は、異様な様を呈している。流血のあとはもはや弥撤《ミサ》も唱えられなくなった。けれども祭壇はなお残っている。奥の荒らい石壁によせかけた粗末な木の祭壇である。石灰乳で洗われた四つの壁、祭壇と向かい合った扉《とびら》、二つの小さな弓形の窓、扉の上の大きな木製の十字架像、十字架像の上にある一束の乾草でふさいである四角な風窓、片すみの床に落ちてるまったくこわれたガラス付きの古い額縁、まずそんなありさまを礼拝堂は呈している。祭壇のそばには、十五世紀式の聖アンヌの木像が釘付けにしてある。小児イエスの頭はビスカイヤンの弾丸に飛ばされてしまった。フランス軍は一時礼拝堂を占領したが、また追い払われて、それに火を放った。炎はその破屋《あばらや》を満たし、溶炉《ようろ》の様を呈した。扉《とびら》は焼け、床板は焼けた。しかし木造のキリストは焼けなかった。木像の足に火はついたが、そこでやんだ。焼け残りの黒ずんだ足が今も見えている。付近の人々の言うところによると全く奇蹟であった。首を切られた小児イエスの方は、そのキリストほど仕合わせではなかったというものである。
 壁には一面に銘文がしるしてある。キリストの足の近く
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