日の戦いには、正午から四時までまったく朦朧《もうろう》たる中間があった。戦いの中心はほとんど不明で、混戦の雲霧につつまれていた。薄暮の色さえそれに加わった。うち見やれば、その靄《もや》の中には広漠《こうばく》たるうねりがあり、眩《まばゆ》きばかりの幻影があり、今日ほとんど知られない当時の軍需品があって、炎のような真紅《しんく》の毛帽、揺らめいている提嚢《ていのう》、十字の負い皮、擲弾用《てきだんよう》の弾薬盒《だんやくごう》、驃騎兵《ひょうきへい》の外套、多くのひだのある赤い長靴、綯総《ないふさ》で飾った重々しい軍帽、緋色《ひいろ》のイギリス歩兵と黒ずんだブルンスウィックの歩兵との混合、肩章の代わりに輪をなした白い大きなモールを上膊《じょうはく》につけてるイギリス兵、銅の帯金と赤い飾毛とのついた長めの皮の兜《かぶと》をかぶってるハンノーヴルの軽騎兵、膝を露《あら》わにし弁慶|縞《じま》の外套を着てるスコットランド兵、フランス擲弾兵の大きな白いゲートル、それは実に戦術的戦線ではなくて、画幅中の光景であり、サルヴァトール・ローザの喜ぶところのものであって、グリボーヴァルの求むるところのものではなかった。([#ここから割り注]訳者注 前者は十七世紀イタリーの画家、後者は十八世紀フランスの戦術家[#ここで割り注終わり])
多少の暴風雨的|擾乱《じょうらん》は常に戦いに交じるものである、ある暗澹たるもの[#「ある暗澹たるもの」に傍点]、ある天意的なるもの[#「ある天意的なるもの」に傍点]が。各歴史家はそれらの混戦のうちに勝手な筋道を立ててみる。しかし将軍らの策略のいかんにかかわらず、群がり立ったる軍勢の衝突は測るべからざる反発を起こすものである。実戦においては両指揮官の二つの計画は互いに交差し互いに妨げる。戦場のある地点はある他の地点よりも多くの兵士をのみつくす、あたかも多少柔軟な地面はそこに注がるる水を多少早く吸い取るがごときものである。かかる場所には予期以上の多数の兵士を注がなければならない。意外の損失をきたす。戦線は糸のごとく浮動し曲折し、血潮の川は盲目的に流れ、前線は波動し、出入する連隊はあるいは岬《みさき》をなしあるいは湾をなし、その暗礁は互いに先へ先へと移動し、歩兵がいた所には砲兵が到着し、砲兵がいた所には騎兵が馳《は》せつけ、あらゆる隊伍は煙のごとくである。そこに何かがいたと思って求むればはや消え失せている。一時の霽間《はれま》はすぐに移ってゆく。陰暗なひだは一進一退する。黄泉《よみじ》の風は、それらの悲壮な群集を吹き送り吹き返し、吹きふくらし吹き散らす。およそ混戦とは何物であるか。一つの擺動《はいどう》である。数学的な不動の図面はただ一瞬のことを説明し得るのみで、一日のことは語り得ない。一つの戦争を描かんがためには、その筆致のうちに混沌《こんとん》たるものを有する力強い画家を要する。かくてレンブラントはヴァン・デル・モイレンにまさる。ヴァン・デル・モイレンは、正午のことについては正確であるが、午後三時においては真より遠ざかる。幾何学は誤りをきたし、ただ颶風《ぐふう》のみが真を伝える。それはポリーブに対して異説を立てしむるの権利をフォラールに与えるところのものである。なおつけ加えて言えば、戦いには局部戦に化するある瞬間が常にある。かかる瞬間においては、戦いは個々に分かれ、無数の細部に分散する。その細部はナポレオン自身の言葉をかりて言えば、「軍隊の歴史によりもむしろ各連隊の伝記に属する」ところのものである。もとよりそういう場合においても、歴史家はそれを摘要するの権利を持っている。しかし彼はその戦闘の主要な輪郭をつかみ得るのみである。そしてまた、いかに忠実なる叙述家といえども、戦いと称せらるるその恐るべき暗雲の形を完全に描き出すことはできないものである。
以上のことは、いかなる大戦闘についても真実であるが、ことにワーテルローにはいっそう適用し得べきものである。
さはあれ、午後になって、ある瞬間に至って、戦いの勢いは明らかになってきた。
六 午後四時
四時ごろには、イギリス軍は危険な状態にあった。オレンジ大侯は中央を指揮し、ヒルは右翼を、ピクトンは左翼を指揮していた。豪胆熱狂なオレンジ大侯はオランダ・ベルギーの連合兵に向かって叫んでいた「ナッソー[#「ナッソー」に傍点]! ブルンスウィック[#「ブルンスウィック」に傍点]! 断じて退くな[#「断じて退くな」に傍点]!」ヒルは弱ってウェリントンの方へよりかかってきた。ピクトンは戦死した。イギリス軍がフランス軍の第百五連隊の軍旗を奪ったと同時に、イギリス軍のピクトン将軍は弾丸に頭を貫かれて戦死を遂げたのだった。ウェリントンにとっては、戦いは二つの支持点を持っていた、すなわち、ウーゴモンとラ・エー・サントと。しかるに、ウーゴモンはなおささえてはいたが焼かれており、ラ・エー・サントは既に奪われていた。そこを防いでいたドイツの一隊は、生き残った者わずかに四十二人で、将校に至っては五人を除くのほか、皆戦死し、あるいは捕虜になっていた。その農家のうちだけで三千の兵士が屠《ほふ》られていた。イギリス一流の拳闘家で無敵と称せられていた近衛の一|軍曹《ぐんそう》も、そこでフランスのある少年鼓手のために殺されていた。ベーリングは撃退され、アルテンはなぎ払われていた。数多の軍旗は失われていた。そのうちには、アルテン師団のものもあり、ドゥー・ポン家のある大侯がささげていたルネブールグ隊のもあった。灰色のスコットランド兵ももはや残っていなかった。ポンソンビーの大なる竜騎兵も壊滅していた。その勇敢な竜騎兵は、ブローの槍騎兵とトラヴェールの胸甲騎兵とのために敗走させられたのだった。その千二百騎のうち残ったものは六百で、ハミルトンは負傷し、メーターは戦死して、三人の中佐ちゅう二人もうち落とされたのだった。ポンソンビーも七つの槍《やり》を被ってたおれていた。ゴルドンもマーシュも戦死していた。第五と第六との両師団は粉砕されていた。
ウーゴモンは危うく、ラ・エー・サントは奪われ、今はただ中央の一節《ひとふし》が残ってるのみだった。その一節はなお支持されていて、ウェリントンはそこに兵員を増加した。彼はそこに、メルブ・ブレーヌにいたヒルを呼び、ブレーヌ・ラルーにいたシャッセを呼び寄せた。
イギリス軍のその中央は、少し中くぼみの形になっていて、兵員は密集し、強固に陣を固めていた。それはモン・サン・ジャンの高地を占めていて、背後に村落を控え、前には当時かなり険しかった斜面を持っていた。そして堅固な石造の家屋を後ろに負っていた。その建物は当時ニヴェルの領有であって、道路の交差点の標《しるし》になっており、十六世紀式の建築で、砲弾もそれに対してはただはね返るのみで破壊し得なかったほど頑丈《がんじょう》にできていた。高地の周囲には、イギリス軍はここかしこに生籬《いけがき》を切り倒し、山※[#「木+査」、第3水準1−85−84]《さんざし》の間に砲眼をこしらえ、木の枝の間に砲口を差し入れ、荊棘《いばら》のうちに銃眼をあけていた。その砲兵は茂みの下に潜められていた。その奸黠《かんかつ》なる工事は、もとよりいかなる係蹄《わな》をも許す戦争ではとがむべきことではないが、いかにも巧みになされていたので、敵の砲座を偵察せんため午前九時に皇帝からつかわされたアクソーもまったく気づかず、立ち帰ってナポレオンに報告したところは、ただ、ニヴェルおよびジュナップから行く両道をさえぎっている二つの防寨《ぼうさい》のほかには、何らの障害もないというのであった。ちょうど畑の作物が高く伸びている時期であって、高地の縁には、ケンプト旅団の一隊第九十五連隊が、カラビーヌ銃を帯びて高い麦の間に伏してるのだった。
かく安全にかつ守りを固くして、イギリス・オランダ軍の中央は好地位に置かれていた。
その陣地の危険はただソアーニュの森であった。その森は当時戦場に接していて、グレナンデルとボアフォールとの二つの池で仕切られていた。そこに退くとすれば軍隊の隊伍は乱れるに違いなかった。連隊は直ちに分散をきたすに違いなかった。砲兵は沼の中に進退を失うに違いなかった。もとより異議を立てる者もあったが、多くの専門家の意見によれば、退却はそこでは潰走《かいそう》に終わるのほかはなかったであろう。
ウェリントンは、シャッセの一個旅団を右翼から抜きウィンケの一個旅団を左翼から抜き、それを中央に加え、次にクリントンの師団をも加えた。そしてそれら手中のイギリス軍、ハルケットの数個連隊、ミッチェルの旅団、メートランドの近衛軍、などの主力になお支持隊として、ブルンスウィックの歩兵、ナッソーの徴集兵、キエルマンゼーゲのハンノーヴル兵、およびオンプテーダのドイツ兵などを加えた。それで彼は二十六個大隊を提げていたのである。シャラスが言ったように、右翼は中央の背後に立て直された[#「右翼は中央の背後に立て直された」に傍点]。莫大《ばくだい》な砲兵隊は、今日いわゆる「ワーテルローの博物館」があるあの場所に、土嚢《どのう》で隠されていた。ウェリントンはなおその上、ソマーセットの近衛竜騎兵千四百騎をあるくぼ地に有していた。それは世の定評に恥じない勇敢なるイギリス騎兵の半分であった。ポンソンビーは粉砕されたが、ソマーセットは残っていたのである。
一度完備すればほとんど一つの角面|堡《ほ》ともなるべきその砲兵隊は、ごく低い塀《へい》の後ろに配置され、砂嚢《さのう》の被覆と大なる土堤とで急速におおわれた。しかしその工事は全部済んではいなかった。それは柵《さく》を施すだけの時間がなかったのである。
ウェリントンは不安ではあったがなお平然として馬にまたがり、モン・サン・ジャンの古い風車小屋の少し前方、楡《にれ》の木の下に、終日同じ姿勢で立っていた。その風車小屋は今もなお残っているが、楡の木の方は、物のわからぬあるイギリスの心酔家が、その後二百フランで買い取り、切り倒して持っていってしまったのである。ウェリントンはそこに、冷然たる勇気をもって立ちつくしていた。砲弾は雨と降りきたった。副官のゴルドンは彼のそばで倒れた。ヒル卿は破裂する榴弾《りゅうだん》をさしながら言った。「閣下、閣下の示教せらるるところは何でありますか。もし戦死せらるる場合にはいかなる命令をあとに残されますか?」「私のとおりせよということだ[#「私のとおりせよということだ」に傍点]、」とウェリントンは答えた。彼はまたクリントンに簡単に言った、「最後の一人までここにふみ止まれ[#「最後の一人までここにふみ止まれ」に傍点]。」戦いは明らかに不利になってきた。ウェリントンはタラヴェラやヴィットーリアやサラマンクなどの昔の戦友たる部下に叫んでいた、「諸子よ[#「諸子よ」に傍点]! いかで退却をなし得るか[#「いかで退却をなし得るか」に傍点]。古よりのイギリスを考えてみよ[#「古よりのイギリスを考えてみよ」に傍点]!」
四時ごろ、イギリスの戦線は後方に動き出した。と突然、高地の頂には砲兵と狙撃兵《そげきへい》とのほか何も見えなくなった。その他のものは姿を消した。全連隊は、フランスの榴弾と砲弾とに追われて、後方深く退いた。そこにはモン・サン・ジャンの田圃《たんぼ》道が今日もなお横切っている。後退運動が起こされ、イギリス戦線の正面は取り払われ、ウェリントンも退いた。「退却を始めた!」とナポレオンは叫んだ。
七 上|機嫌《きげん》のナポレオン
皇帝は病気にかかっていて馬上では局所に苦痛を感じて困難ではあったが、かつてその日ほど上機嫌《じょうきげん》なことはなかった。心情を発露することのないその顔つきも、朝から微笑をたたえていた。大理石の面をかぶったようなその深い魂も、一八一五年六月十八日には何ということもなく光り輝いていた。アウステルリッツにおいて陰鬱《いんうつ》であったその人も、ワーテルローにおいては快活
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