ある所には、炎を持ち行くことをやめようではないか。
ゆえに、十九世紀の世にあって吾人は、一般的の問題として、またあらゆる民衆のうちにおいて、アジアとヨーロッパとを問わず、インドとトルコとを問わず、禁慾的閉居に反対する者である。修道院を説くは沼沢を説くに等しい。その腐敗性は明らかであり、その澱《よど》みは不健全であり、その毒気は民衆に熱を病ましめ民衆を衰弱せしむる。その数が増せばやがてエジプトの災厄となる。インド托鉢僧《たくはつそう》、仏教僧、マホメット教行者、ギリシャ修道者、マホメット教隠者、シャム仏僧、マホメット教僧侶、彼らが増加して蛆虫《うじむし》のごとく群がってる国を考える時、吾人は身震いせざるを得ない。
かく言っても、宗教的問題はなお残っている。その問題は、神秘的なほとんど恐るべき方面を有している。ここに吾人をしてそれを凝視することを許していただきたい。
四 原則の見地より見たる修道院
多くの人が相集まって共同の家に住む。それはいかなる権利によってであるか? 団結の権利によってである。
彼らはその家に閉じこもる。いかなる権利によってか? おのれの戸を開きも
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