ルディエの身振りのうちには何となく直線的なものがあって、きっぱりと口をきく時には軍人らしい趣となり、十字を切る時には神学校生徒らしい趣となった。話が上手で、学者と思われることもあった。けれども、小学校の先生は彼の「言葉尻《ことばじり》の訛《なま》り」に気がついた。彼は旅客への勘定書を書くことに妙を得ていた。けれども、なれた目で見ると往々つづりの誤りが見い出された。彼は狡猾《こうかつ》で、強欲で、なまけ者で、しかも利口であった。彼は下女どもをも軽蔑しなかった。そのために女房の方では下女を置かなくなった。この大女は至って嫉妬《しっと》深かった。彼女には、そのやせた黄色い小男がだれからでも惚《ほ》れられそうに思えたのである。
テナルディエは特に瞞着《まんちゃく》者で落ち着いた男であって、まあ穏やかな方の悪党であった。けれどもそれは最も性質《たち》のよくないやつである、なぜなら偽善が交じってくるからである。
かといって、テナルディエとても女房のように怒気を現わす場合がないわけではない。ただそれはきわめてまれであった。そしてそういう時には、彼は人間全体を憎んでるようだった。自分のうちに憎悪《ぞうお》の深い釜を持ってるようだった。絶えず復讐《ふくしゅう》の念をいだいていて、自分に落ちかかってきたことはすべて目の前のものの罪に帰し、生涯《しょうがい》の失意|破綻《はたん》災難のすべてを正当な不平のようにいつもだれにでもなげつけようとしているかのようだった。すべてのうっ積した感情が心のうちに起こってきて、口と目から沸き立って来るかのようだった。そして恐るべき様子になるのであった。そういう彼の激怒に出会った人こそ災難である!
その他種々な性質のほかにテナルディエはまた、注意深く、見通しがきき、場合によっては無口だったり饒舌《じょうぜつ》だったりして、いつもきわめて聡明《そうめい》だった。望遠鏡をのぞくになれた船乗りのような目つきを持っていた。彼は一種の政略家であった。
その飲食店に初めてやってきた者はだれでも、テナルディエの上《かみ》さんを見て、「あれがこの家の主人だな」と思うのだった。しかしそれはまちがっていた。いな、彼女は一家の主婦でさえもなかった。主人でありまた主婦であるのは、亭主の方であった。女房の方は仕事をした、そして亭主の方はその方針を定めた。彼は一種の目に見えない絶えざる磁石のような働きによってすべてを指導していた。一言で、また時には一つの手まねで、もう十分だった。怪物のような女房はそれに従った。女房はただなぜとなく、亭主を特殊な主権的な者のように感じていた。彼女は自己一流の徳操を持っていた。何かのことに「主人テナルディエ」と意見が合わぬことはあっても、いな、実際そういうことはあり得ないことではあったがまあそう仮定するとしても、彼女は決して何事に限らず人前で亭主をやりこめることをしなかったであろう。しばしば女がやりたがるあの過ち、法廷風な言葉でいわゆる「夫の尊厳を汚す」というような過ちを、彼女は決して「他人の前で」犯すことはしなかったであろう。彼らの同意はその結果悪事ばかりを産み出すものではあったが、テナルディエの女房が自分の夫に服従してる趣のうちには、ある静観的なものがあった。大声とでっぷりした肉体とを持っている山のような女は、小柄な専制君主の指一本の下に動いていた。それは、その低劣な可笑《おか》しな一面からのぞいてみたる普遍的な偉大な事実、精神に対する物質の尊敬、そのものであった。ある醜悪も、永遠の美という深淵のうちにその存在の理由を持っていることがあるものである。テナルディエのうちにはある不可解なものがあった。彼がその女房の上に絶対の力を有することは、そこからきたのである。ある時は、彼女は彼を燃えている蝋燭《ろうそく》のようにうちながめ、またある時は、彼を恐ろしい爪のように感じていた。
彼女は恐るべき動物で、自分の子供をしか愛せず、自分の夫をしか恐れていなかった。彼女はただ哺乳動物《ほにゅうどうぶつ》であるから母親になったまでである。その上、彼女の母親としての情愛もただ自分の女の児に対してだけで、いずれ後に述べるであろうが、男の児にまでは広がらなかった。それから亭主の方ではただ一つの考えしか持っていなかった。すなわち金持ちになるということ。
しかし彼はその点には成功しなかった。その偉大なる才能に足るだけの舞台がなかったのである。テナルディエはモンフェルメイュにおいて零落しつつあった。もし零落ということが無財産にも可能であるならば。これがスウィスかピレネー地方ででもあったら、この無一文の男も百万長者になったかも知れない。しかし宿屋の亭主では一向うだつがあがらない。
もとよりここでは、宿屋の亭主[#「宿屋の亭主」に
前へ
次へ
全143ページ中44ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ユゴー ヴィクトル の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング