ッツ、それこそ偉大なものである。礼拝するヴォルテール、それこそみごとなものである。ヴォルテール[#「ヴォルテール」に傍点]は([#ここから割り注]訳者補 この堂を[#ここで割り注終わり])神に建てぬ[#「神に建てぬ」に傍点]。
 吾人はもろもろの宗教には反対であるが、真の一つの宗教の味方である。
 吾人は説教の惨《みじ》めさを信ずるものであり、祈祷の崇厳さを信ずるものである。
 その上、今吾人が過ぎつつあるこの瞬間において、仕合わせにも十九世紀に跡を印しないであろうこの瞬間において、また、多くの現代人が享楽的な道徳を奉じ一時的な不完全な物質的事物をのみ念頭にしている中にあって、なお多くの人は下げた額と高くもたげぬ魂とを持っているこの時において、自ら俗世をのがれる者は皆吾人には尊むべき者のように思われる。修道院生活は一つの脱俗である。犠牲は誤った道を進もうともやはり犠牲たることは一である。厳酷なる誤謬を義務として取ること、そこには一種の偉大さがある。
 それ自身について言えば、理想的に言えば、そしてすべての外部を公平に見きわめるまで真理のまわりを回らんがために言えば、修道院は、ことに女の修道院は――なぜならば、現社会において最も苦しむものは女であり、そしてこの修道院への遁世《とんせい》のうちには一の抗議が潜んでいるからして――女の修道院は、確かにある荘厳さを有している。
 前に多少の輪郭を示しておいた厳格|陰鬱《いんうつ》なる修道生活、それは生命ではない、なぜならば自由ではないから。それは墳墓ではない、なぜならば完成ではないから。それは不思議なる一つの場所である。高山の頂から見るように人はそこから、一方には現世の深淵《しんえん》をながめ、他方には彼世の深淵をながめる。それは二つの世界を分かってる狭い霧深い一つの境界で、両世界のために明るくされるとともにまた暗くされ、生の弱い光と死の茫漠《ぼうばく》たる光とが入り交じっている。それは墳墓の薄明である。
 それらの女の信ずるところを信じてはいないがしかし彼女らのごとく信仰によって生きている吾人をして言わしむれば、吾人は一種の宗教的なやさしい恐怖の情なしには、羨望《せんぼう》の念に満ちた一種の憐憫《れんびん》の情なしには、彼女らをながむることができないのである。震え戦《おのの》きながらしかも信じ切っているそれらの身をささげた
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