その長さは一様でなかった。道の両側にはすぐりの木が立ち並んでいた。庭の奥には、大きな白楊樹の並んだ一筋の道が、ドロア・ムュール街の角にある古い修道院の廃屋から、オーマレー小路の角《かど》にある小修道院まで通じていた。小修道院の前方には、小庭と言われてるものがあった。それらの全体に加うるに、一つの中庭、中部の住家がこしらえてる種々な角、監獄の壁、ポロンソー街の向こう側にあって近くにずっと見渡せる黒い長い屋根並みの一列、などをもってする時には、今から四十五年前のプティー・ピクプュスのベルナール修道女らの住居のありさまが、だいたいわかるであろう。この聖《きよ》い住居はまさしく、十四世紀から十六世紀へかけて有名だった一万一千の悪魔の庭球場[#「一万一千の悪魔の庭球場」に傍点]と呼ばれるテニスコートの跡に、建てられていたのである。
 なおそれらの街路は、パリーのうちでは最も古いものだった。ドロア・ムュールとかオーマレーとかいう名前はきわめて古いものである。がそういう名前を持ってる街路はなおずっと古いものである。オーマレー小路はもとモーグー小路と言われていた。そしてドロア・ムュール街([#ここから割り注]訳者注 垂直壁街の意[#ここで割り注終わり])はエグランティエ街([#ここから割り注]訳者注 野薔薇街の意[#ここで割り注終わり])と言われていた、それは人が石を切る前に神は花を咲かせられたからである。

     九 僧衣に包まれし一世紀

 われわれはプティー・ピクプュスの古《いにしえ》のありさまを詳しく述べているのであるから、そして既にこの秘密な隠れ家《が》の窓を一つ開いて中をのぞいたことであるから、なおここにも一つ枝葉の点を述べることを許していただきたい。これは本書の内容とは没交渉のものではあるけれども、この修道院が独特な点を有することを了解せんがためには、きわめて特異な有効なものである。
 小修道院に、フォントヴローの修道院からやってきた百歳ばかりの女が一人いた。彼女は革命以前には上流社会の人だった。ルイ十四世の下に掌璽官《しょうじかん》だったミロメニル氏のことや、親しく知っていたというあるデュプラーという議長夫人のことなぞを、いつもよく話していた。あらゆる場合に右の二つの名前を持ち出すことは、彼女の楽しみでもあり見栄《みえ》でもあった。またフォントヴローの修道院に関
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