女の声、時とすると愛する女の声であった。けれどもだれの姿も見えなかった。息の音さえもほとんど聞こえなかった。墳墓のような仕切りを通して話しかける天の声かとも思われるのだった。
もし先方の望みどおりの身分の人である時には、そういう身分の人はきわめてまれではあるが、正面に板戸の狭い一枚が開いて、その天啓は本体の出現となるのであった。格子《こうし》の向こうに、更に板戸の向こうに、格子の目からようやくに一つの顔が見えてくる。それもただ脣《くちびる》と※[#「丿+臣+頁」、第4水準2−92−28]《あご》とだけで、残りは黒い面紗《かおぎぬ》におおわれている。それから黒い胸当てと、黒い衣に包まれたぼんやりした姿とが見て取られる。その顔が話しかけてるのであった。しかしこちらを見もしなければ、また決して微笑《ほほえ》みもしなかった。
後ろからさして来る明るみは、向こうの姿を白く見せ、こちらの姿を向こうに黒く見せるようにしつらえてあった。その明るみは一つの象徴《シンボル》であった。
そのうちに目は、前に開かれた窓口から、すべての人の目に閉ざされてるその場所の中へ熱心にのぞき込んでゆく。ある朦朧《もうろう》とした深さが黒服の女の姿を包んでいる。目はその朦朧とした中をさがし求めて、出現した女のまわりにあるものを見きわめようとする。すると間もなく、実は何も見ていなかったことに気づくのであった。見ていたものは、夜であり、空虚であり、暗黒であり、墓地の空気に交じった冬の靄《もや》であり、恐るべき一種の平安さであり、何ものをも呼吸《いき》の音《ね》をさえも聞き得ない静謐《せいひつ》であり、何物をも幻の姿をさえも見得ない暗黒であった。
見ていたところのものは、修道院の内部だったのである。
それは実に、常住礼拝[#「常住礼拝」に傍点]のベルナール派修道女の修道院と言われる陰惨厳格なる家の内部だったのである。今いるその室《へや》は、応接室だった。先刻初めに話しかけてくれたあの声は、受付の女の声だった。彼女は壁の向こうに、四角な穴のそばに、二重の面をかぶったように鉄の格子《こうし》とたくさんの穴のあるブリキ板とにへだてられて、黙って身動きもしないでいつもすわってるのだった。
表の方に窓が一つあって、修道院の内部の方には窓がなかったので、格子のついたその室は薄暗い後ろ明りだった。その聖《きよ》
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