り、その樹木もありふれたものであり、自分がはいりもしないその家は何の役にも立たないものであり、踏み歩くその舗石《しきいし》は単なる石くれであると、人は思うものである。けれども後に至ってもはや故国に身を置かない時には、その街路がとうとくなり、その屋根や窓や戸口が惜しくなり、その壁がほしくなり、その樹木がなつかしくなり、はいりもしなかったその家を毎日訪れ、その舗石の中には自分の内臓や血潮や心を残してきたのであることを、人は感ずるものである。もはや見られぬそれらの場合、おそらく永久に再び見ることのないそれらの場所、しかも心のうちにだきしめているそれらの場所、それは一種のうれわしい魅力を帯び、夢幻の憂愁をもって浮かんでき、目に見得る聖地のごとき趣を呈し、言わばフランスそれ自身の形となるのである。そして人はそれらを愛し、そのあるがままのありしがままの姿を思い浮かべ、それに固執してその何物をも変ずることを欲しない。なぜならば人は、母の面影に対するがごとく祖国の姿に執着するものであるから。
 それゆえに、過去のこととして語るのを許していただきたい。それから次に、そのことを注意しておかるるよう読者に願って、そして物語の筆を続けよう。
 さてジャン・ヴァルジャンは、すぐにオピタル大通りを離れて、裏通りのうちに進み入り、できるだけ曲がりくねった方向を取り、追跡されていはしないかを確かめるために、時々急にもときた方へ戻ったりした。
 そのやり方は、狩り立てられた鹿《しか》がよくやることである。足跡が残るような場所では、種々の利益があるがなかんずく、逆行路によって狩人《かりゅうど》や犬を欺くの利益がある。猟犬をもってする狩りの方で逆逃げ[#「逆逃げ」に傍点]と称するところのものがすなわちそれである。
 ちょうど満月の夜であった。しかしジャン・ヴァルジャンはそのために少しも困まりはしなかった。まだ地平線に近い月は、影と光との大きな帯で街路を二つにくぎっていた。ジャン・ヴァルジャンは人家や壁に沿って影のうちに身を潜め、光の方を透かし見ることができた。影の方を見ることができなかったことを、彼はあまり念頭に置いていなかったらしい。ポリヴォー街に続く寂しい小路を進みながら、確かにだれも後ろからついて来る者はないと思った。
 コゼットは何も尋ねずに歩いていた。世に出て最初からの六年間の苦しみは、彼女の
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