し、息を凝らして、喜ばしげに耳を澄まし初めた。
ちょうど中庭に一人の子供が遊んでいた。門番の女の児か、またはだれか女工の児であろう。それこそ実に、痛ましいできごとの神秘な舞台面の一部をなすらしいあのよくある偶然事の一つである。それは一人の小さな女の児で、身を暖めるために行ったりきたり走ったりして、高い声で笑い歌っていた。ああ、子供の戯れまですべてのことに立ち交じるものである! ファンティーヌが聞いたのはその小さい娘の歌う声であった。
「おお!」とファンティーヌは言った、「あれは私のコゼットだわ! 私はあの声を覚えている。」
子供はきた時のようにまたふいに去って行った。声は聞こえなくなった。ファンティーヌはなおしばらく耳を傾けていたが、次にその顔は暗くなった。そしてマドレーヌ氏は、彼女が低い声で言うのを聞いた。「私を娘に会わしてくれないとは、あのお医者は何という意地悪だろう! ほんとにいやな顔をしているわ、あの人は。」
しかし彼女の頭の底の楽しい考えはまた浮き出してきた。彼女は頭を枕につけながら、自ら自分に語り続けた。「私たちは何と仕合わせになることだろう! まず一番に小さな庭が持てる。マドレーヌ様がそうおっしゃっていらした。娘はその庭で遊ぶだろう。それにもう字も覚えなければならない。綴《つづ》り方を教えてやろう。草の中に蝶々《ちょうちょう》を追っかけることだろう。私はその姿を見てやるわ。それからまた、初めての聖体拝受《コンムユニオン》もさしてやろう。ああ、いつそれをするようになるかしら?」
彼女は指を折って数え初めた。
「……一《ひい》、二《ふう》、三《みい》、四《よう》、もう七歳《ななつ》になる。もう五年したら。白いヴェールを被《かぶ》らせ、透き編みの靴下をはかせよう。一人前の娘さんのようになるだろう。ああ童貞さん、ほんとに私はばかですわね、娘の最初の聖体拝受《コンムユニオン》なんかを考えたりして。」
そして彼女は笑い出した。
マドレーヌ氏はファンティーヌの手を離していた。彼は下に目を伏せ底知れぬ考えのうちに沈んで、あたかも風の吹く音を聞くかのようにそれらの言葉に耳を貸していた。と突然、彼女は口をつぐんだ。彼はそれで機械的に頭を上げた。ファンティーヌは恐ろしい様子になっていた。
彼女はもう口をきこうとしなかった、息さえも潜めていた。彼女はそこに半ば身を起こし、やせた肩はシャツから現われ、一瞬間前まで輝いていた顔はまっさおになり、そして、自分の前に室の向こうの端に、何か恐ろしいものを見つめてるようだった。その目は恐怖のために大きく見開かれていた。
「おう!」と彼は叫んだ、「どうした? ファンティーヌ。」
彼女は答えなかった。その見つめたある物から目を離さなかった。彼女は片手で彼の腕をとらえ、片手で後ろを見るように合い図をした。
彼はふり返って見た。そこにはジャヴェルが立っていた。
三 満足なるジャヴェル
事実の経過はこうである。
マドレーヌ氏がアラスの重罪裁判廷を去ったのは、夜の十二時半が鳴った時だった。彼は宿屋に帰って、読者の知るとおり席を約束しておいた郵便馬車で出発するのに、ちょうど間に合った。朝の六時少し前にモントルイュ・スュール・メールに到着した。そして第一の仕事は、ラフィット氏への手紙を郵便局に投げ込み、次に病舎へ行ってファンティーヌを見舞うことだった。
しかるに一方では、彼が重罪裁判の法廷を去るや、検事は初めの驚きから我に返って、モントルイュ・スュール・メールの名誉ある市長の常規を逸した行動をあわれむ由を述べ、後にわかるべきその奇怪なできごとによっても自分の確信は少しも変わらないことを表明し、真のジャン・ヴァルジャンなることが明白であるそのシャンマティユーの処刑をさしあたり要求する旨を論じた。その検事の固執は、公衆や法官や陪審員などすべての人の感情と明らかに衝突した。弁護士は容易に検事の論旨を弁駁《べんばく》することができ、マドレーヌ氏すなわち真のジャン・ヴァルジャンの告白によって事件の局面は根本からくつがえされ、陪審の人々はもはや眼前に一個無罪の男を見るのみであることを、容易に立論することができた。彼はまたそれに乗じて、裁判上の錯誤やその他種々のことについて、惜しいかな、さして事新しくもない感慨的結論を述べたてた。裁判長は結局弁護士に同意した。そして陪審員らは数分の後、シャンマティユーを免訴した。
しかし検事には一人のジャン・ヴァルジャンが必要であった。そして既にシャンマティユーを逸したので、マドレーヌの方をとらえた。
シャンマティユーの放免後直ちに、検事は裁判長とともに一室に閉じこもった。彼らは「モントルイュ・スュール・メールの市長その人の逮捕の必要のこと」を商議した。このの[#「の」に傍点]という文字の多い文句は検事のであって、検事長への報告の原稿に全部彼の手によってしたためられたものである。初めの感動はもう通り過ぎていたので、裁判長もあまり異議を立てなかった。正義の行進をささえ止めるわけにはいかなかった。なおついでに言ってしまえば、裁判長は善良なかなり頭のいい男ではあったが、同時に非常なほとんど激烈な王党であって、モントルイュ・スュール・メールの市長がカーヌ上陸のことを言うおり、ブオナパルト[#「ブオナパルト」に傍点]と言わないで皇帝[#「皇帝」に傍点]と言ったことに気を悪くしていたのである。
そこで逮捕の令状は発送せられた。検事は特使に馬を駆らしてモントルイュ・スュール・メールにつかわし、警視ジャヴェルにそのことを一任した。
ジャヴェルは供述をすました後直ちにモントルイュ・スュール・メールに帰っていたことは、読者の既に知るとおりである。
特使が逮捕令状と拘引状とをもたらした時には、ジャヴェルはもう起き上がっていた。
特使の男もものなれた一警官であって、わずか数語でアラスに起こった事をジャヴェルに伝えた。検事の署名のある逮捕令状は次のようだった。「警視ジャヴェルは本日の法廷において放免囚徒ジャン・ヴァルジャンなりと認定せられたるモントルイュ・スュール・メール市長マドレーヌ氏を逮捕せらるべし。」
ジャヴェルを知らずしてたまたま彼が病舎の控え室にはいってきたところを見た人があったとしたら、その人はおそらくどういうことが起こったか察することはできなかったろう、そして彼の中に何ら異常な様子も見いださなかったろう。彼は冷ややかで落ち着いて重々しく、半白の髪をすっかり顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》の上になでつけ、いつものようにゆっくり階段を上がってきたのだった。しかし彼をよく知っていて今その様子を注意して見た人があったら、その人は戦慄《せんりつ》を覚えたであろう。その鞣革《なめしがわ》のカラーの留め金は、首の後ろになくて、左の耳の所にきていた。それは非常な動乱を示すものであった。
ジャヴェルは一徹な男であって、その義務にも服装にも一つのしわさえ許さなかった。悪人に対して規律正しいとともに、服のボタンに対しても厳正であった。
カラーの留め金を乱している所を見ると、内心の地震とも称し得べき感情の一つが、彼のうちにあったに違いなかった。
彼は近くの屯所《とんしょ》から一人の伍長と四人の兵士とを請求し、それを中庭に残して置き、ただ簡単にやってきたのだった。彼は門番の女からファンティーヌの室を聞いた。門番の女は兵士らが市長を尋ねてくるのは見なれていたので、別に怪しみもしなかったのである。
ファンティーヌの室にくると、ジャヴェルは取っ手を回し、看護婦かあるいは探偵のようにそっと扉《とびら》を押し開き、そしてはいってきた。
厳密に言えば彼は中にはいったのではなかった。帽子をかぶったまま、頤《あご》までボタンをかけたフロックに左手をつき込み、半ば開いた扉の間に立っていたのである。曲げた腕の中には、後ろに隠し持った太い杖の鉛の頭が見えていた。
彼はだれにも気づかれずに一分間ばかりそうしていた。と突然ファンティーヌが目をあげて、彼を見、マドレーヌ氏をふり向かしたのだった。
マドレーヌの視線とジャヴェルの視線とが合った時、ジャヴェルは身をも動かさず位置をも変えず近づきもしないで、ただ恐るべき姿になった。およそ人間の感情のうちで、かかる喜びほど恐るべき姿になり得るものはない。
それは実に、地獄に堕《お》ちたる者を見いだした悪魔の顔であった。
ついにジャン・ヴァルジャンを捕え得たという確信は、魂の中にあるすべてをその顔の上に現わさしたのである。かき回された水底のものが水面に上がってきたのである。少し手掛かりを失って一時シャンマティユーを誤認したという屈辱の感は、最初いかにもよく察知して長い間正当な本能を持ち続けていたという高慢の念に消されてしまった。ジャヴェルの満足はその昂然《こうぜん》たる態度のうちに現われた。醜い勝利の感はその狭い額《ひたい》の上に輝いた。それは満足したる顔つきが与え得る限りの恐怖の発現であった。
ジャヴェルは、その瞬間に天にいたのである。自らはっきり自覚してはいなかったが、しかし自己の有用と成功とに対するおぼろな直覚をもって彼ジャヴェルは、悪をくじく聖《きよ》き役目における正義光明真理の権化《ごんげ》であった。彼はその背後と周囲とに、無限の深さにおいて、権威、正理、判定せられたるもの、合法的良心、重罪公訴など、あらゆる星辰《せいしん》を持っていた。彼は秩序を擁護し、法律よりその雷電を発せしめ、社会のために復讐《ふくしゅう》し、絶対なるものに協力し、自ら光栄のうちに突っ立っていた。彼の勝利のうちには、なお挑戦と戦闘とのなごりがあった。光彩を放ちながら傲然《ごうぜん》とつっ立って彼は、獰猛《どうもう》なる天使の長《おさ》の超人間的獣性を青空のまんなかにひろげていた。彼が遂げつつある行為の恐るべき影は、社会の剣の漠然《ばくぜん》たる光をその握りしめた拳《こぶし》に浮き出さしていた。満足しかつ憤然として彼は、罪悪、不徳、反逆、永罰、地獄を、その足下に踏み押さえていた。彼は光り輝き、撃滅し、微笑していた。そしてその恐るべき聖ミカエル([#ここから割り注]訳者注 天の兵士の長[#ここで割り注終わり])のうちには争うべからざる壮大の趣があった。
ジャヴェルはかく恐ろしくはあったが、何ら賤《いや》しいところはなかった。
清廉、真摯《しんし》、誠直、確信、義務の感などは、悪用せらるる時には嫌悪《けんお》すべきものとなるが、しかしなおそれでも壮大さを失わない。人間の良心に固有なるそれらのものの威厳は、人をおびえさする時にもなお残存する。それらのものは、錯誤という一つの欠点をのみ有する徳である。凶猛に満ちた狂信者の正直な無慈悲な喜悦のうちには、痛ましくも尊むべきある光燿《こうよう》がある。ジャヴェルは自ら知らずして、あらゆる無知なる勝利者と同じく、そのおそるべき幸福のうちにあってあわれまるべき者であった。善の害悪とも称し得べきものの現われてるその顔ほど、痛切なまた恐るべきものはなかった。
四 官憲再び権力を振るう
ファンティーヌは市長が彼女を奪い取ってくれたあの日いらいジャヴェルを見なかったのである。彼女の病める頭には何事もよくわからなかったが、ただ彼が再び自分を捕えにきたのだということを信じた。彼女はその恐ろしい顔を見るにたえなかった。息がつまるような気がした。彼女は顔を両手のうちに隠して苦しげに叫んだ。
「マドレーヌ様、助けて下さいませ!」
ジャン・ヴァルジャン――われわれはこれからはもうこの名前で彼を呼ぶことにしよう――は立ち上がっていた。彼は最もやさしい落ち着いた声でファンティーヌに言った。
「安心なさい。あの人がきたのはあなたのためにではありません。」
それから彼はジャヴェルへ向かって言った。
「君の用事はわかっている。」
ジャヴェルは答えた。
「さあ、早く!」
その二語の音調のうちにはある荒々
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