ある。
「ああ市長様でございますか!」と彼女は叫んだ。
 彼は低い声でそれに答えた。
「あのかわいそうな女はどんなあんばいです。」
「ただいまはそう悪くはございません。でも私どもは大変心配いたしました。」
 彼女は経過を話した。ファンティーヌは前日非常に悪かったが、今では、市長がモンフェルメイュに子供を引き取りに行ってると思い込んでるのでずっとよくなったと。彼女はあえて市長に尋ね得なかったが、市長がそこから帰ってきたのでないことをその様子で見て取った。
「それはいい具合だ、」と彼は言った、「事実をうち明けないでおかれたのはよかった。」
「さようです。」と修道女は言った。「ですけれど今、あの女《ひと》があなたに会って子供を見なかったら、私どもは何と申してやったらよろしいでしょう。」
 彼はちょっと考え込んだ。
「神様が何とか教えて下さるでしょう。」と彼は言った。
「ですけれど嘘《うそ》は言えないんですもの。」と修道女は口の中でつぶやいた。
 昼の光は室の中に流れ込んでいた、そしてマドレーヌ氏の顔を正面から照らしていた。修道女はふと目を上げた。
「まあ、あなた!」と彼女は叫んだ、「どうなされたのでございます? あなたの髪はまっ白になっております。」
「まっ白に!」と彼は言った。
 サンプリス修道女は鏡を持っていなかった。彼女はそこにある道具|鞄《かばん》の中を探って、小さな鏡を一つ取り出した。病人が死んで呼吸《いき》が止まったのを確かめるために病舎の医者が使っていたものである。マドレーヌ氏はその鏡を取って、それに映して自分の髪の毛をながめた。そして言った、「ほほう!」
 彼はその言葉を、あたかも他に心を取られているかのように無関心な調子で言った。
 修道女はそれらのことのうちに何か異様なものを感じてぞっとした。
 マドレーヌ氏は尋ねた。
「あの女に会ってもいいでしょうかね。」
「あなたは子供をつれ戻してやるつもりではいらっしゃらないのですか。」と彼女はようやくにして一つ問いをかけた。
「もとよりそうするつもりです。けれど少なくも二、三日はかかるでしょう。」
「ではその時まであの女《ひと》に会わないことになさいましては。」と彼女はおずおず言った。「あの女はあなたがお帰りの事を知らないでしょう。そうして気長く待たせるようにするには容易でございましょう。そして子供がきましたら、自然に市長様も子供といっしょにお帰りなすったと思うに違いありません。そういたせば少しも嘘《うそ》を言わないですみます。」
 マドレーヌ氏はしばらく考えてるようだったが、それから落ち着いた重々しい調子で言った。
「いや、私はあの女《ひと》に会わなけりゃならない。たぶん、私は急ぐんだから。」
 修道女はその「たぶん」という語に気づかないらしかった。しかしそれは、市長の言葉に曖昧《あいまい》な特殊な意味を与えるものだった。彼女はうやうやしく目を伏せ声を低めて答えた。
「それでは、あの女《ひと》は寝《やす》んでいますが、おはいり下さいませ。」
 彼は扉《とびら》の具合いが悪くてその音が病人の目をさまさせるかも知れないことをちょっと注意して、それからファンティーヌの室にはいり、その寝台に近づいて、帷《とばり》を少し開いてみた。彼女は眠っていた。胸から出る息には悲痛な音が交じっていた。その音はその種の病気に固有なものであって、眠りについてる死に瀕《ひん》した子供のそばで徹宵《てっしょう》看護する母親らの胸を痛ましめるところのものである。しかしその困難な呼吸も、彼女の顔の上にひろがって彼女の眠った姿を変えている一種言い難い晴朗さを、ほとんど乱してはいなかった。彼女の青ざめた色は今は白色になっていた。その頬《ほほ》には鮮やかな色が上っていた。処女と青春とからなお残っている彼女の唯一の美である長い金色の睫毛《まつげ》は、低く閉ざされていながら揺《ゆら》めいていた。彼女の全身は軽く震えていた。目には見えないがその動くのは感ぜらるるある翼がまさに開いて、彼女を運び去ろうとしているかのようだった。そのような彼女の姿を見ては、ほとんど絶望の病人であるとは信ぜられなかったろう。彼女はまさに死なんとしているというよりもむしろ、まさに飛び去らんとしているかのようだった。
 人の手が花を摘み取らんとして近づく時、その枝は震えて、身を退けるとともにまた身を差し出すがごとく思われる。死の神秘なる指先がまさに魂を摘み取らんとする時、人の身体もそれに似た震えをなすものである。
 マドレーヌ氏は病床のそばにしばらくじっとたたずんで、ちょうど二カ月前初めて彼女をこの避難所に見舞ってきた日のように、病人と十字架像とを交互にながめていた。彼らは二人ともそこにやはり同じ姿勢をしていた、彼女は眠り、彼は祈って。ただ二カ月過ぎた今日では、彼女の髪は灰色になり、彼の髪はまっ白になっていた。
 サンプリス修道女は彼とともにはいってきていなかった。彼は寝台のそばに立ちながら、あたかも室の中にだれかがいてそれに沈黙を命ずるかのように、指を口にあてていた。
 ファンティーヌは目を開いた。彼女は彼を見た。そしてほほえみながら静かに言った。
「あの、コゼットは?」

     二 楽しきファンティーヌ

 ファンティーヌはびっくりした身振りも喜びの身振りもしなかった。彼女は喜びそのものであった。「あの、コゼットは?」というその簡単な問いは、深い信念と確信とをもって、不安も疑念もまったくなしに発せられたので、マドレーヌ氏はそれに答うべき言葉が見つからなかった。ファンティーヌは続けて言った。
「私はあなたがそこにいらっしゃるのを知っていました。私は眠っておりましたが、あなたを見ていました。もう長い間見ていました。夜通し私は目であなたの後《あと》をつけていました。あなたは栄光に包まれて、あなたのまわりにはあらゆる天の人たちがいました。」
 彼は十字架像の方に目を上げた。
「ですが、」と彼女は言った、「どこにコゼットはいるのか教えて下さい。私が目をさます時のために、なぜ私の寝床の上に連れてきて下さらなかったのでしょう。」
 彼は何か機械的に答えた。しかし何と答えたのか、自分でも後でどうしても思い出せなかった。ちょうど仕合わせにも、医者が知らせを受けてやってきた。彼はマドレーヌ氏を助けた。
「まあ静かになさい。」と医者は言った。「子供はあちらにきています。」
 ファンティーヌの目は輝き渡り、顔一面に光を投げた。すべて祈願の含み得る最も激しいまた優しいものをこめた表情をして、彼女は両手を握り合わした。
「ああどうか、」と彼女は叫んだ、「私の所へ抱いてきて下さい。」
 ああいかに人の心を動かす母の幻想であるかよ! コゼットは彼女にとっては常に、抱きかかえ得る小さな子供であった。
「まだいけません。」と医者は言った。「今すぐはいけません。まだあなたには熱があります。子供を見たら、興奮して身体にさわるでしょう。まずすっかりなおらなければいけません。」
 彼女は苛《い》ら立ってその言葉をさえぎった。
「私はなおっていますわ! なおっていますっていうのに! この先生は何てわからずやでしょう。ああ、私は子供に会いたいんです。私は!」
「それごらんなさい、」と医者は言った、「あなたはそんなに興奮するでしょう。そんなふうでいる間は、子供に会うことに私は反対します。子供に会うだけでは何にもなりません、子供のために生きなければいけません。あなたがしっかりしてきたら、私が自分で子供は連れてきてあげます。」
 あわれな母は頭を下げた。
「先生、お許し下さい。ほんとうに許して下さいませ。昔は今のような口のきき方をしたことはありませんでしたが、あんまりいろいろな不仕合わせが続きましたので、どうかすると自分で自分の言ってる事がわからなくなるのです。私はよくわかっております、あまり心を動かすことを御心配なすっていらっしゃるんですわね。私は先生のおっしゃるまで待っていますわ。ですけれど、娘に会っても身体にさわるようなことは決してありませんわ。私は娘を見ています。昨晩から目を離さないでいます。今娘が抱かれて私の所へきても、私はごく静かに口をききます。それだけのことですわ。モンフェルメイュからわざわざ連れてきて下すった子供に会いたがるのは、当たりまえのことではありませんか。私は苛《い》ら立ってはいません。私はこれから仕合わせになるのをよく知っています。夜通し私は、何か白いものを、そして私に笑いかけてる人たちを見ました。先生のおよろしい時に、私のコゼットを抱いてきて下さいませ。私はもう熱はありません、なおってるんですもの。もう何ともないような気がしますわ。けれど、病人のようなふうをして、ここの御婦人方の気に入るように動かないでおりましょう。私が静かにしてるのを御覧なすったら、子供に会わしてやるがいいとおっしゃって下さいますでしょう。」
 マドレーヌ氏は寝台のそばにある椅子《いす》にすわっていた。ファンティーヌは彼の方に顔を向けた。彼女はまるで子供のような病衰のうちに、自分でも言ったとおり、静かにそして「おとなしく」しているのを見せようと明らかに努力をしていた。そして自分が穏やかにしているのを見たらだれもコゼットを連れて来るのに反対しないだろうと、思っているらしかった。けれども、自らそうおさえながらも、彼女はマドレーヌ氏にいろいろなことを尋ねてやまなかった。
「市長様、旅はおもしろうございましたか。ほんとに、私のために子供を引き取りに行って下さいまして、何という御親切でしょう。ただちょっと子供の様子をきかして下さいませ。旅にも弱りませんでしたでしょうか。ああ、娘は私を覚えていませんでしょう! あの時から私をもう忘れてるでしょう、かわいそうに! 子供には記憶というものがないんですもの。小鳥のようなものですわ。今日はこれを見てるかと思うと、明日はあれを見ています、そしてもう何にも思い出しません。娘は白いシャツくらいは着ていましたでしょうか。テナルディエの人たちは娘をきれいにしてくれていましたでしょうか。どんな物を食べていましたでしょう。ほんとうに、私は困っていました頃、そんなことを考えてはどんなに苦しい思いをしましたでしょう。でも今ではみんな済んでしまいました。私はほんとにうれしいのです。ああ私はどんなに娘に会いたいでしょう! 市長様、娘はかわいうございましたか。娘はきれいでございましょうね。あなたは駅馬車の中でお寒くていらっしゃいましたでしょうね。ほんのちょっとの間でも娘をつれてきていただけませんでしょうか。一目見たらまたすぐ向こうに連れてゆかれてもよろしいんですが。ねえ、あなたは御主人ですから、あなたさえお許しになりますれば!」
 彼は彼女の手を取った。「コゼットはきれいです。」と彼は言った。「コゼットは丈夫です。じきに会えます。がまあ落ち着かなくてはいけません。あなたはあまりひどく口をきくし、それに寝床から腕を出しています。それで咳《せき》が出るんです。」
 実際、激しい咳はほとんど一語一語彼女の言葉を妨げていた。
 ファンティーヌはもう不平を言わなかった。あまり激しく訴えすぎて、皆に安心させようとしていたのがむだになりはしないかと恐れた。そして関係のない他のことを言い出した。
「モンフェルメイュは相当よい所ではございませんか。夏になるとよく人が遊びに行きます。テナルディエの家は繁盛しておりますか。あの辺は旅の客が多くありません。であの宿屋もまあ料理屋みたようなものですわね。」
 マドレーヌ氏はやはり彼女の手を取ったままで、心配して彼女の顔を見ていた。明らかに彼女に何事かを言うためにきたのであったが、いまや彼の頭はそれに躊躇《ちゅうちょ》していた。医者は診察をすまして出て行った。ただサンプリス修道女だけが彼らの傍に残った。
 そのうち、その沈黙の最中に、ファンティーヌは叫んだ。
「娘の声がする。あ、娘の声が聞こえる!」
 彼女は周囲の人たちに黙っているように腕を伸ば
前へ 次へ
全64ページ中61ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ユゴー ヴィクトル の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング