ィドローがきらいだ。彼は観念論者で、壮語家で、革命家で、それで内心神を信じてい、そしてヴォルテール以上に頑迷《がんめい》である。ヴォルテールはニードハムを嘲《あざけ》ったが、それは誤りだ。何となればニードハムの針鰻《はりうなぎ》は神の無用を証明するのだから。一|匙《さじ》の捏粉《こねこ》のうちに酢の一滴をたらせば、それがすなわち|光あれ《フィア・リュクス》である。かりにその一滴をいっそう大きくし、その一匙をいっそう大きくしてみれば、すなわち世界となる。そして人間はすなわち針鰻である。しからば永久の父なる神も何の役に立とう! 司教さん、エホバの仮説には私はもうあきあきする。そういう仮説はただ、がらん洞《どう》のやせこけた人間を作るに役立つばかりだ。予をわずらわすこの大なる全《ぜん》を仆《たお》せ、予を安静ならしむるかの無《む》なるかな、である。ここきりの話だが底をわって言えば、そして私の牧人《ひつじかい》なる君に至当なる懺悔《ざんげ》をすれば、私は正当なる理性を有するのである。口を開けば常に解脱と犠牲とを説く君のイエスに私は熱中することができない。それは乞食《こじき》に対する吝嗇家《りんしょくか》の助言である。解脱! 何ゆえか。犠牲! 何物に対してか。私は一つの狼《おおかみ》が他の幸福のために身を犠牲にするのをかつて見ない。われわれは自然に従うべきである。われわれは頂上にいる。優《すぐ》れたる哲学を持たなければならない。他人の鼻の頭より以上を見得ないならば、高きにいる事も何の役に立とう。愉快に生きるべしである。人生、それがすべてだ。人は未来の生を、かの天国にか、かの地獄にか、どこかに所有すると言わば言うがいい。私はそういう欺瞞《ぎまん》の言葉を信じない。ああ人は私に犠牲と脱却とを求める。自分のなすすべての事に注意し、善と悪、正と邪、合法《ファス》と非法《ネファス》とに頭を痛めざるべからずと言う。しかし何のためにであろう。私はやがて自己の行ないを弁義せなければならないであろうからというのか。そしてそれは何の時に? 死して後にである。何というりっぱな夢か? 死して後に私を取り上げるとは結構なことだ。影の手をもって私の一握の灰をつかむがいい。神秘に通じイシスの神の裳《もすそ》をあげたる吾人をして真を語らしめよ、曰《いわ》く、善もあるなく悪もあるなし、ただ生長あるのみ。真実を求むべきである。掘りつくすべきである。奥底まで行くべきである。真理を追い求め、地下を掘り穿《うが》ちてそれをつかまなければならない。その時真理は人に美妙なる喜びを与える。人は力強くなり、真に笑うことができる。私は確乎《かっこ》たる信念を持っている。司教さん、人間の不死というのは一つの狐火《きつねび》にすぎない。まことに結構な約束だ! それを信ずるもまたいいでしょう。アダムは結構な手形を持ったものだ。人は霊である、天使になるであろう、双肩に青い翼を持つであろうと。それからテルツリアヌスではないですか、幸福なる人々は星より星へ行くであろうと言ったのは。それもいいでしょう。人は星の蝗虫《ばった》になる。そしてそれから、神を見るであろう。アハハハ。それらの天国なるものは皆|囈語《たわごと》にすぎない。神というはばかばかしい怪物にすぎない。もちろん私はかかることを新聞雑誌の上で言いはしないが、ただ親友の間でささやくだけです。杯盤《インテル》の間《ポキュラ》にです。天のために地を犠牲にするのは、水に映った影を見て口の餌物《えもの》を放すようなものです。無限なるものから欺かるるほど愚かなことはない。私は虚無である。私は自ら元老院議員虚無伯と呼ぶ。生まれいずる前に私は存在していたか。否。死後に私は存在するであろうか。否。私は何物であるか。有機的に凝結したわずかの塵《ちり》である。この地上において何をなすべきか。それは選択を要する。すなわち、苦しむべきかもしくは楽しむべきか。ところで、苦しみは私をどこへ導くであろうか。虚無へである。しかし既に苦しんだ後にである。楽しみは私をどこへ導くであろうか。虚無へである。しかし既に楽しんだ後にである。私の選択は定まっているのだ。食《くら》うべきかもしくは食わるべきかの問題だ。私は食う。草たらんよりはむしろ歯たるに如《し》かず。そういうのが私の知恵である。いいですか、その後には墓掘りが控えている。われわれにとっては神廟《しんびょう》が。皆大きな穴の中に落ちこむのである。死。結末《フィニス》。全部の清算。そこが消滅の場所である。死は死しているのである。私に何か言うべき人がそこにいるというのか。考えるだに可笑《おか》しい。乳母《うば》の作り話だ。子供にとってはお化け、大人《おとな》にとってはエホバ。いな。われわれの明日《あす》は夜である。墓のかなたにはだれにも同じ虚無があるばかりだ。背徳漢サルダナパロスであろうと、聖者ヴァンサン・ド・ポールであろうと、常に同じ無《む》に帰する。それが真実である。ゆえに何よりもまず生きるべし。汝が汝の自己を保つ間、そを用うべし。実際、司教さん、君に重ねて言うが、私には私の哲学がある、私の哲学者たちがある。私は児戯に類した言によっておのれを飾りはしない。もとより下層の者には、乞食や研師《とぎし》や惨《みじ》めな奴《やつ》らには、何かがなくてはならない。彼らには伝説や妄想《もうそう》や霊魂や不死や天国や星などを食わせるがよい。彼らはそれをかみしめる。堅パンの上にふりかける。何物をも有しない者は善良なる神を持つ。まあそれくらいのものだ。私は決してそれに反対はしない。しかし私は自分のためにネージョン氏の説を取っておくのである。善良なる神は民衆にとって善良なのだ。」
 司教は手をたたいた。
「よくも言われた!」と彼は叫んだ、「あなたの唯物主義は実にりっぱな、まことに驚くべきものです。だれにでも得らるるものではない。ああそんな主義を会得した暁には、もう欺かるることはないです。愚かにもカトーのように追放さるることもなく、エティエンヌのように石で打たるることもなく、ジャンヌ・ダルクのように生きながら焼かるることもないでしょう。そういうみごとな唯物主義を首尾よく得た者は、責任解除の喜びを得るものです。いかなる地位も、冗官《じょうかん》も、位階も、正当に得られた権利も不当に得られた権利も、利益ある変説も、有利な背反も、都合よい自己弁解も、すべてを安んじて食い得ると思う喜びを得るものです。そして消化を終えて墓の中にはいると思う喜びを得るものです。まことに愉快なことです! 私はそれをあなたに向かって言うのではありませんよ。けれどもあなたに祝意を表わさずにはおれないです。あなた方りっぱな方々は、お言葉のとおりに、御自身のそして御自身のための一つの哲学を持っていられる。美妙で、精巧で、富者ばかりが手にすることができ、いかなるものにもよくきくソースであって、人生の快楽にうまく味をつける哲学です。その哲学は地下深くから取られ、特別な探求者によって掘り出されたものです。しかしあなたはいい方です。善良なる神の信仰は民衆の哲学であることが差しつかえないと言われる、あたかも鵞鳥《がちょう》の栗《くり》料理は貧しい者にとっては七面鳥の松露料理だとでも言うように。」

     九 妹の語りたる兄

 ディーニュの司教一家の生活状態と、二人の聖《きよ》き婦人がその行為も思想もまた動かされやすい本性まで、司教の指導をまつまでもなく彼の習慣と考えとに従わしていった日常の様とを、おおよそ示さんがためには、バティスティーヌ嬢がその幼な友だちのボアシュヴロン子爵夫人にあてた一通の手紙を、ここに写すに越したことはない。その手紙をわれわれは所有している。

[#地から3字上げ]ディーニュにて、一八――年十二月十六日
[#ここから2字下げ]
 子爵夫人さま、一日としてあなたのお噂《うわさ》をせずに過ごしたことはありませぬ。それはほとんど私どもの習慣でもありますが、なお他に一つの理由がありますので。マグロアールが天井や壁のほこりをはらったり洗ったりして、ある発見をいたしたのです。ただ今では、石灰乳で白くぬられた古い壁紙の私どもの二つの室は、お宅のようなりっぱなお住居《すまい》にも比べて恥ずかしからぬほどになりました。マグロアールが壁紙をみなはがしてしまいましたところ、その下にあるものがあったのです。私の客間は、何の道具もなく、ただ洗濯物をひろげるくらいのことに使っていまして、高さ十五尺に縦も横もともに十八尺でありますが、天井はもとから金色に塗られ、桁《けた》はちょうどお宅ののようにこしらえてあります。施療院でありましたころは、布地《きれじ》で蔽《おお》われていたのでした。それからまた、私どもの祖母時代に属する壁板細工もあります。けれども特にお目にかけたいのは、私の居間《いま》なのです。マグロアールが、少なくも十枚ばかりの壁紙の張られていました下に、絵画を見出したのです。いいものではないにしてもかなり見られます。テレマックが馬上にてミネルヴァに迎えらるる所、それからまた彼が庭にいる所など。画家の名はちょっとわかりません。またローマの婦人たちが一夜出歩いてゆく場所。どう申したらよろしいでしょうか、まあ多くのローマの男子や(この所一語読み難し)婦人や、その多くの従者たちがいます。マグロアールがそれらの絵からすっかり塵《ちり》を払ってくれました。そしてこの夏には、室の所々の破損を直し全部を塗りかえるように言っていますので、私の室はまったく博物館のような趣になりますでしょう。彼女はまた納屋の片すみに古風な二つの木卓を見つけました。それを金色に塗りかえるには六リーヴル金貨二枚くらいはかかるでしょう。けれどそれは貧しい人たちに施した方がよろしいのです。その上その小卓はごく体裁が悪くて、マホガニーの円卓の方が私は好ましいのです。
 私はいつも仕合わせでいます。兄はきわめて親切なのです。自分の持ってるものは残らず困窮な者や病人などに与えてしまいます。大変困まることもあります。この地方は冬がごく厳《きび》しくて、貧乏[#「貧乏」は底本では「貧之」]な人たちのために何かしてやらなければなりません。私どもはようやくに薪《まき》をたいたり燈火《あかり》をともしたりしています。でもそれは非常に楽しいことなのです。
 兄は自己一流のやりかたを持っています。話をする時には、司教たるものはかくしなければならないというようなことを申します。家の戸口は決して締りをいたしません。だれでもはいれます、そしてすぐに兄の所へ行けるのです。兄は何物も恐れません、夜ですら。自分でよく言いますように、それが兄の勇気なのです。
 兄は私やマグロアールが兄の身を心配するのを好みません。どんな危険でも冒しまして、そして私たちがその危険を案じているようなふうをするのさえ好みません。よく兄の性質を了解しなければいけないのです。
 兄は雨中に出かけたり、水の中を歩いたり、冬に旅をしたりいたします。兄は夜をもこわがりません、怪しい道や、悪者に出会うことなども。
 昨年のことでしたが、兄は一人で盗賊の出没している地方に出かけました。私どもを連れてゆくことを好まなかったのです。十五日間帰りませんでした。帰って来るまで兄には何事も起こらなかったのでした。兄は死んでいるものとだれも思っていましたのに、丈夫でいたのです。そして、こんな盗人に出会った、と申します。行李《こうり》を開きますと、中にはアンブロン大会堂のいっさいの宝物がはいっています。盗賊どもがそれを兄にくれたのです。
 私は兄の友だちの方々といっしょに二里ばかり出迎えに行ったのでしたが、その帰りに、その時ばかりは少し小言《こごと》を言わないではおれませんでした。それでも他の人に聞こえないように馬車が音を立てて走っている間に申したのです。
 初めのうち私は、いかなる危険も兄を止めることはできない、兄は恐ろしい人である、と思っていました。けれど今ではそれになれてしまいました。マグロ
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