とかなり年取ってるその町人は答えた。「では私についておいでなさい。私もちょうど裁判所の方へ、というのは県庁の方へ、ゆくところです。ただ今では裁判所が修繕中ですから、かりに裁判は県庁で開かれてるのです。」
「そこで、」と彼は尋ねた、「重罪裁判も開かれるのですか。」
「もちろんです。今日県庁となっている建物は、大革命前には司教邸でした。一七八二年に司教だったコンジエ氏が、そこに大広間を建てさせたものです。裁判はその大広間でなされています。」
 歩きながら町人は彼に言った。
「もし裁判が見たいというのなら、少し遅すぎますよ。普通は法廷は六時に閉じますから。」
 けれども二人がそこの広場にきた時、まっくらな大きな建物の正面の燈火《あかり》のついた四つの長い窓を、町人は彼に指《さ》し示した。
「やあ間に合った。あなたは運がいいんですよ。あの四つ窓が見えましょう。あれが重罪裁判です。光が差してるところをみると、まだ済んでいないと見えます。事件が長引いたので夜までやってるのでしょう。あなたは事件に何か関係があるのですか。刑事問題ででもあるのですか。あなたは証人ですか。」
 彼は答えた。
「私は別に事件に関係があってきたのではありません。ただちょっとある弁護士に話したいことがあるものですから。」
「いやそうでしたか。」と町人は言った。「それ、ここに入り口があります。番人はどこにいるかしら。その大階段を上がってゆかれたらいいでしょう。」
 彼は町人の教えに従った。そしてやがてある広間に出た。そこには大勢の人がいて、法服の弁護士を交じえた集団を所々に作って何かささやいていた。
 黒服をつけて法廷の入り口で小声にささやき合ってるその人々の群れは、いつも見る人の心を痛ましめるものである。慈悲と憐憫《れんびん》とがそれらの言葉から出るのはきわめてまれである。最も多く出るものは、あらかじめ定められた処刑である。考えにふけりつつそこをよぎる傍観者にとっては、それらの群集は陰惨な蜂《はち》の巣のように見えるのであろう。その巣の中においては、うち騒いでる多くの頭が協同してあらゆる暗黒な建物を築こうとしているのである。
 そのただ一つのランプの燈《とも》された大きな広間は、昔は司教邸の控えの間であったが、今は法廷の控室となっていた。観音開きの扉が、その時閉ざされていて、重罪裁判が開かれている大きな室をへだてていた。
 広間の中は薄暗かったので、彼は最初に出会った弁護士に平気で話しかけた。
「審問はどの辺まで進みましたか。」
「もう済みました。」と弁護士は言った。
「済みました!」
 そう鋭い語調で鸚鵡《おうむ》返しにされたので、弁護士はふり返って見た。
「失礼ですが、あなたは親戚なんですか。」
「いや私の知ってる者は一人もここにはいません。そして刑に処せられたのですか。」
「無論です。処刑は当然です。」
「徒刑に?……」
「そうです、終身です。」
 彼はようやく聞き取れるくらいの弱い声で言った。
「それでは、同一人だということが検証せられたわけですね。」
「同一人ですって?」と弁護士は答えた。「そんなことを検証する必要はなかったのです。事件は簡単です。その女は子供を殺した、児殺しの事実は証明された、しかし陪審員は謀殺を認めなかった、で終身刑に処せられたのです。」
「では女の事件ですか。」と彼は言った。
「そうですとも。リモザンの娘です。いったい何の事をあなたは言ってるんですか。」
「いや何でもありません。ですが裁判はすんだのに、どうして法廷にはまだ燈火《あかり》がついてるのですか。」
「次の事件があるからです。もう開廷して二時間ほどになるでしょう。」
「次の事件というのはどういうのです。」
「なにそれも明瞭な事件です。一種の無頼漢で、再犯者で、徒刑囚で、それが窃盗を働いたのです。名前はよく覚えていません。人相の悪い奴です。人相からだけでも徒刑場にやっていい奴《やつ》です。」
「どうでしょう、」と彼は尋ねた、「法廷の方へはいる方法はないでしょうか。」
「どうもむずかしいでしょう。大変な人です。ですがただいま休憩中です。外に出た人もありますから、また初まったら一つ骨折ってごらんなさい。」
「どこからはいるのです。」
「この大きな戸口からです。」
 弁護士は向こうへ行った。二、三瞬間の間に彼は、あらゆる感情をほとんど同時にいっしょに感じた。その無関係な弁護士の言葉は、あるいは氷の針のごとくあるいは炎の刃のごとく、こもごも彼の心を刺し貫いた。まだ何も終結していないのを知った時、彼は息をついた。しかし彼が感じたのは満足の情であったか、あるいは苦悩の情であったか、彼自身も語ることはできなかったであろう。
 彼は幾多の群集に近寄って、その話に耳を傾けた。――法廷は事件が非常に輻輳《ふくそう》していたので、裁判長はその一日のうちに簡単な短い二つの事件を選んだのだった。まず児殺しの事件から初めて、こんどは、あの徒刑囚、再犯者、「古狸」の方の番になった。その男は林檎《りんご》を盗んだのである。しかしそれは証拠不十分らしかった。がかえってその男は一度ツーロンの徒刑場にはいっていたという証拠が上がった。事件は険悪になった。本人の尋問と証人の供述とは済んだ。しかしなお弁護士の弁論と検事の論告とが残っている。夜半にならなければ終結しないに違いない。その男はたぶん刑に処せられるだろう。検事は賢明な人で、決して被告を射外した[#「射外した」に傍点]ことがなく、また少しは詩も作れる才人である。
 法廷の室に通ずる扉《とびら》の所に一人の守衛が立っていた。彼はその守衛に尋ねた。
「この扉は間もなく開かれますか。」
「いや開きません。」と守衛は答えた。
「え! 開廷になっても開かないのですか。今裁判は休憩になってるのではないですか。」
「裁判は今また初まったところです。」と守衛は答えた。
「しかし扉《とびら》は開かれません。」
「なぜです。」
「中は満員ですから。」
「何ですって! もう一つの席もないのですか。」
「一つもありません。扉はしまっています。もうだれもはいることはできません。」
 守衛はそこでちょっと言葉を切ったが、またつけ加えた。「裁判長殿の後ろになお二、三の席がありますが、そこには官吏の人きり許されていません。」
 そう言って、守衛は彼に背を向けた。
 彼は頭をたれてそこから去り、控え室を通り、あたかも一段ごとに逡巡《しゅんじゅん》するかのようにゆっくり階段を下りていった。たぶん自ら自分に相談していたのであろう。前日来彼のうちに戦われていた激しい闘争はなお終わっていなかった。そして彼は各瞬間ごとにその新しい局面を経てきたのだった。階段の中の平段までおりた時、彼は欄干にもたれて腕を組んだ。それから突然フロックの胸を開き、手帳を取り出し、鉛筆を引き出し、一枚の紙を破り、その上に反照燈の光で手早く次の一行を認めた。「モントルイュ[#「モントルイュ」に傍点]・スュール[#「スュール」に傍点]・メール市長[#「メール市長」に傍点]、マドレーヌ[#「マドレーヌ」に傍点]。」それから彼は大またにまた階段を上って、大勢の人を押しわけ、まっすぐに守衛の所へ行き、その紙片を渡し、そして彼に断然と言った。「これを裁判長の所へ持って行ってもらいたい。」
 守衛はその紙片を取り、ちょっとながめて、そして彼の言葉に従った。

     八 好意の入場許可

 モントルイュ・スュール・メールの市長といえば、彼自身はそうとも思っていなかったが、世に評判になっていた。その有徳の名声は、七年前から下《しも》ブーロンネーにあまねく響いていたが、ついにはその狭い地方を越えて、二、三の近県までひろがっていた。あの黒飾玉工業を回復してその中心市に大なる貢献をなしたのみならず、モントルイュ・スュール・メール郡の百四十一カ村のうち一つとして彼から何かの恩沢を被らない村はなかった。彼はなお必要に応じては他郡の工業も助けて盛大にしてやった。たとえばある場合には彼は、自分の信用と資本を投じて、ブーローニュの網目機業を助け、フレヴァンの麻糸紡績業を助け、ブーベル・スュール・カンシュの水力機業を助けた。いたるところ人はマドレーヌ氏の名前を敬意をもって口にしていた。アラスやドゥーエーの町は、かくのごとき市長をいただくモントルイュ・スュール・メールの仕合わせな小さな町をうらやんでいた。
 アラスの重罪裁判を統《す》べていたドゥーエーの控訴院判事は、かくも広くまた尊敬されてる彼の名を、世間の人と同じくよく知っていた。守衛が評議室から法廷に通ずる扉《とびら》をひそかに開いて、裁判長の椅子《いす》の後ろに低く身をかがめ、前述の文字がしたためてある紙片を彼に渡して、「この方が法廷にはいられたいそうです[#「この方が法廷にはいられたいそうです」に傍点]、」とつけ加えた時に、裁判長は急に敬意ある態度を取って、ペンを取り上げ、その紙片の下に数語したためて、それを守衛に渡して言った、「お通し申せ。」
 われわれがここにその生涯を述べつつあるこの不幸な人は、守衛が去った時と同じ態度のままで同じ場所に、広間の扉《とびら》のそばに立っていた。彼は惘然《ぼうぜん》と考えに沈みながら、「どうぞこちらへおいで下さい、」とだれかが言うのを聞いた。先刻は彼に背を向けて冷淡なふうをした守衛が、今は彼に向かって低く身をかがめていた。と同時に彼に紙片を渡した。彼はそれを開いた。ちょうど近くにランプがあったので、彼は読むことができた。
「重罪裁判長はマドレーヌ氏に敬意を表し候《そうろう》。」
 彼はその数語を読んで異様な苦々《にがにが》しい気持ちを感じたかのように、紙片を手の中にもみくちゃにした。
 彼は守衛に従っていった。
 やがて彼は、壁板の張られてる、いかめしい室の中に自分を見いだした。そこにはだれもいず、ただ青い卓布のかかった一つのテーブルの上に二本の蝋燭《ろうそく》がともっていた。そして彼の耳にはなお、彼をそこに残して行った守衛の言葉が響いていた。「これが評議室でございます。この扉の銅の取っ手をお回しになりますれば、ちょうど法廷の裁判長殿のうしろにお出になれます。」そしてその言葉は、今通ってきた狭い廊下と暗い階段との漠然《ばくぜん》とした記憶に、彼の頭の中でからみついていた。
 守衛は彼を一人残して行ってしまった。最後の時がきた。彼は考えをまとめようとしたができなかった。思索の糸が脳裏にたち切れるのは特に、人生の痛ましい現実に思索を加える必要を最も多く感ずる時においてである。彼は既に判事らが討議し断罪するその場所にきていたのである。彼は呆然《ぼうぜん》たる落ち着きをもってその静まり返ってる恐ろしい室を見回した。この室において、いかに多くの生涯が破壊されたことであろう。やがて彼の名前もこの室に響き渡るのである。そしていまや彼の運命はこの室を過《よぎ》りつつある。彼はじっとその壁をながめ、次に自分を顧みた。それがこの室であり、それが自分自身であることを、彼は自ら驚いた。
 彼はもう二十四時間以上の間何も食べず、また馬車の動揺のために弱り切っていた。しかし彼はそれを自ら感じなかった。何の感じをも持っていないような心地《ここち》がしていた。
 彼は壁にかかっている黒い額縁に近寄った。そのガラスの下にはパリー市長でありまた大臣であったジャン・ニコラ・パーシュの自筆の古い手紙が納めてあった。日付は、きっとまちがったのであろうが、革命第二年六月[#「六月」に傍点]九日としてあった。それはパーシュが、自家拘禁に処せられた大臣や議員の名簿をパリー府庁に送ったものだった。その時もしだれか彼を見彼を観察したならば、必ずや彼がその手紙を非常に珍しがってるものと思ったであろう。なぜなら、彼はその手紙から目を離さず、二、三度くり返して読んだのだった。しかし彼は何らの注意も払わず、ほとんど無意識にそれを読んでるにすぎなかった。心ではファンティーヌとコゼットのことを考えていた。
 考えに
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