。ただ門番の婆さんに今晩待っていないようにとだけ言ってゆかれた。
 サンプリス修道女は問い尋ね雑仕婦はいろいろ想像しながら、二人でファンティーヌの寝台に背を向けてひそひそささやいていた。その間、ファンティーヌは健康の自由な運動と死の恐るべき衰弱とを同時にきたすあの臓器病特有な熱発的元気で、寝床の上にひざまずき枕頭《まくらもと》に震える両手をついて、帷《とばり》の間から頭をつき出して聞いていた。そして突然彼女は叫んだ。
「あなた方はマドレーヌ様のことを話していらっしゃいますね! なぜそんな低い声をなさるの。あの人はどうなさったのです。なぜいらっしゃらないのです?」
 その声は荒々しく嗄《しわが》れていて、二人の女は男の声をきいたような気がした。二人はびっくりしてふり向いた。
「返事をして下さい!」とファンティーヌは叫んだ。
 雑仕婦はつぶやいた。
「門番のお婆さんの言葉では、今日はあの方はおいでになれないかも知れませんそうです。」
「まあ、あなた、」修道女は言った、「落ちついて、横になっていらっしゃいね。」
 ファンティーヌはなおそのままの姿勢で、おごそかな悲痛な調子で声高に言った。
「こられません? なぜでしょう? でもあなた方にはわかってるはずです。今お二人で小声で話していらしたじゃありませんか。私にも知らして下さい。」
 雑仕婦は急いで修道女の耳にささやいた。「市会の御用中だとお答えなさいませ。」
 サンプリス修道女は軽く顔をあからめた。雑仕婦が勧めたことは一つの虚言であった。しかしまた一方においては、本当のことを言えば必ず病人に大きい打撃を与えるだろうし、ファンティーヌの今の容態では重大なことになりそうにも思えた。しかし彼女の赤面は長くは続かなかった。彼女は静かな悲しい目付きをファンティーヌの上に向けた。そして言った。
「市長さんはどこかへ出かけられました。」
 ファンティーヌは身を起こしてそこにすわった。その目は輝いてきた。異常な喜びがその痛ましい顔に輝いた。
「出かけられた!」と彼女は叫んだ。「コゼットを引き取りに行かれた!」
 そして彼女は両手を天に差し出した。その顔は名状し難い様を呈した。その脣《くちびる》は震えていた。彼女は低い声で祈りをささげたのだった。
 祈祷を終えて彼女は言った。「あなた、私はまた横になりたくなりました。これから何でもおっしゃるとおりにいたしますわ。今私はあまり勝手でした。あんな大きい声を出したりなんかして、お許し下さいな。大きい声を出すのは悪いことだとよく知っております。けれど、ねえあなた、私はほんとにうれしいんですわ。神様は御親切です。マドレーヌ様は御親切です。まあ考えてみて下さい、あの方は私の小さなコゼットを引き取りにモンフェルメイュへ行って下すったんですもの。」
 彼女は横になった。修道女に自ら手伝って枕を直した。そして、サンプリス修道女からもらって首にかけていた小さな銀の十字架に脣《くちびる》をつけた。
「あなた、」と修道女は言った、「これから静かにお休みなさい。もう口をきいてはいけませんよ。」
 ファンティーヌは汗ばんだ両手のうちに修道女の手を取った。修道女は彼女のその汗を感じて心を痛めた。
「あの方は今朝パリーへ発《た》たれたのでしょう。ほんとうはパリーを通る必要はないんです。モンフェルメイュは向こうから来ると少し左の方にそれてます。あなた覚えておいででしょう、昨日私がコゼットのことを話しますと、じきだ[#「じきだ」に傍点]、じきだ[#「じきだ」に傍点]、とおっしゃったのを。私をびっくりさせようと思っていらっしゃるんですわ。あなたも御存じでしょう、テナルディエの所から子供を取り戻す手紙に私に署名させなすったのを。もう先方でも否《いや》とは言えませんわねえ。きっとコゼットを返してくれるでしょう。金を受け取ってるんですもの。金は受け取って子供は返さないなどということを、お上《かみ》も許しておかれるはずがありません。あなた、口をきくなって様子をしないで下さい。私はたいそううれしいんです。大変よくなってきました。もうちっとも苦しかありません。コゼットに会えるんですもの。何だか物も少し食べたいようですの。あの児にはもう五年も会わないんです。子供がどんなものか、あなたにはわかりませんよ。それにきっとあの児は大変おとなしいでしょうよ。ねえ、薔薇色《ばらいろ》の小さなそれはかわいい指を持っていますわ。第一大変きれいな手をしていますでしょうよ。でも一歳《ひとつ》の時にはそれはおかしな手をしていました。ええそうですよ。――今では大きくなってるでしょう。もう七歳《ななつ》ですもの、りっぱな娘ですわ。私はコゼットと呼んでいますが、本当はユーフラージーというんです。そう、今朝暖炉の上のほこりを見てましたら、間もなくコゼットに会えるだろうという考えがふと起こりましたのよ。ああ、幾年も自分の子供の顔も見ないでいるというのは、何というまちがったことでしょう! 人の生命《いのち》はいつまでも続くものでないことをよく考えておかなければなりません。おお、行って下さるなんて市長さんは何と親切なお方でしょう! 大変寒いというのは本当なんですか。せめてマントくらいは着てゆかれましたでしょうね。明日《あした》はここにお帰りですわね。明日はお祝い日ですわ。明日の朝は、レースのついた小さな帽子をかぶることを私に注意して下さいね。モンフェルメイュはそれは田舎《いなか》ですわ。昔私は歩いてやってきたんです。ずいぶん遠いように思えました。けれど駅馬車なら早いものです。明日《あした》はコゼットといっしょにここにおいでになりますわ。ここからモンフェルメイュまでどのくらいありますでしょう?」
 サンプリス修道女には距離のことは少しもわからなかったので、ただ答えた。「ええ、明日はここに帰っておいでになると思います。」
「明日、明日、」とファンティーヌは言った、「明日私はコゼットに会える! ねえ、御親切な童貞さん、私はもう病気ではありませんわね。気が変なようですわ。よかったら踊ってもみせますわ。」
 十五分も前の彼女の様子を見た者があったら、今のその様子に訳がわからなくなったであろう。彼女はもう美しい顔色をしていた。話す声も元気があり自然であって、顔にはいっぱい微笑をたたえていた。時々は低く独語しながら笑っていた。母親の喜びはほとんど子供の喜びと同じである。
「それで、」とサンプリス修道女は言った、「あなたはそのとおり仕合わせですから、私の言うことを聞いて、もう口をきいてはいけませんよ。」
 ファンティーヌは頭を枕につけて、半ば口の中で言った。「そう、お寝《やす》みなさい、子供が来るんだからおとなしくしなければいけませんって、サンプリスさんのおっしゃるのは道理《もっとも》だわ。ここの人たちのおっしゃることは皆本当だわ。」
 それから、身動きもせず、頭も動かさず、目を大きく見開いてうれしそうな様子で、彼女はあたりを見回し初めた。そしてもう何とも言わなかった。
 サンプリス修道女は、彼女が眠るようにとその帷《とばり》をしめた。
 七時と八時との間に医者がきた。何の物音も聞こえなかったので、彼はファンティーヌが眠ってるものと思って、そっと室にはいってきて、爪先《つまさき》立って寝台に近寄った。彼は帷《とばり》を少し開いた、そして豆ランプの光でさしのぞくと、ファンティーヌの静かな大きい目が彼をじっと見ていた。
 彼女は彼に言った。「あなた、私のそばに小さな床をしいてあの子を寝かして下さいますわね。」
 医者は彼女の意識が乱れているのだと思った。彼女はつけ加えた。
「ごらんなすって下さい、ちょうどそれだけの場所はありますわ。」
 医者はサンプリス修道女をわきに呼んだ。修道女は事情を説明した。マドレーヌ氏は一日か二日不在である、病人は市長がモンフェルメイュに行かれたのだと信じているが、よくわからないので事実を明かさなければならないとも思えないし、また病人の察するところがあるいはかえって本当かも知れない。すると医者はそれに同意した。
 医者はまたファンティーヌの寝台に近寄っていった。彼女は言った。
「そうすれば私は、朝あの子が目をさましたらこんにちはと言ってやれますし、また晩に眠れない時は、子供の寝息が聞けますでしょう。そのやさしい小さな寝息をきくと、きっと心持ちがよくなりますわ。」
「手を貸してごらんなさい。」と医者は言った。
 彼女は腕を差し出した、そして笑いながら叫んだ。
「まあ、ほんとに、あなたにはおわかりになりませんの。私は治《なお》ったのですわ。コゼットが明日《あした》参りますのよ。」
 医者は驚いた。彼女は前よりよくなっていた。息苦しさは和《やわら》いでいた。脈は力を回復していた。突然生命の力がよみがえって、その衰弱しきったあわれな女に元気を与えていた。
「先生、」と彼女は言った、「市長さんが赤ん坊をつれに行かれましたことを、サンプリスさんはあなたにおっしゃいませんでしたか。」
 彼女になるべく口をきかせないように、また彼女の心を痛めるようなことをしないようにと、医者は人々に頼んだ。彼はまた規那皮《きなひ》だけの煎薬《せんやく》と、夜分に熱が出た場合のため鎮静水薬とを処方した。そして立ち去る時修道女に言った。「よくなってきました。幸いにも果たして市長が明日《あした》子供を連れてこられたら、そうですね、望外なことがあるかも知れません。非常な喜びが急に病気を治《なお》した例もあります。この患者の病気は明らかに一つの臓器病ですし、しかもだいぶ進んでいます。しかしまったく不可思議なものです。あるいは生命を取り留めることができましょう。」

     七 到着せる旅客ただちに出発の準備をなす

 さてわれわれが途中に残しておいたあの馬車がアラスの郵便宿の門をくぐったのは、晩の八時近くであった。われわれがこれまで述べきたったあの旅客は、馬車からおり、宿屋の人たちのあいさつにはほとんど目もくれず、副馬《そえうま》を返し、そして自ら小さな白馬を廐《うまや》に引いて行った。それから彼は一階にある撞球場《たまつきば》の扉《とびら》を排して中にはいり、そこに腰をおろして、テーブルの上に肱《ひじ》をついた。六時間でなすつもりの旅に十四時間かかったのである。彼はそれを自分の過《あやまち》ではないとして自ら弁解した。しかし心のうちでは別に不快を覚えてるのでもなかった。
 宿の主婦がはいってきた。
「旦那《だんな》はお泊まりでございますか。お食事はいかがでございますか。」
 彼は頭を横に振った。
「馬丁が申しますには、旦那の馬はたいそう疲れているそうでございますが。」
 それで初めて彼は口を開いた。
「馬は明朝また出立するわけにはゆかないでしょうかね。」
「なかなか旦那、まあ二日くらいは休ませませんでは。」
 彼は尋ねた。
「ここは郵便取扱所ではありませんか。」
「はいさようでございます。」
 主婦は彼を郵便取扱所に案内した。彼は通行証を示して、その晩郵便馬車でモントルイュ・スュール・メールに帰る方法はないかと尋ねた。ちょうど郵便夫の隣の席が空《あ》いていた。彼はそれを約束して金を払った。「では、」と所員は言った、「出発するために午前正一時にまちがいなくここにきて下さい。」
 それがすんで、彼はその郵便宿を出た。そして町を歩き初めた。
 彼はアラスの様子を知らなかった。街路は薄暗く、彼はでたらめに歩いた。頑固《がんこ》に構えて通行人に道を尋ねもしなかった。小さなクランション川を越すと、狭い小路の入り乱れた所にふみ込んで道がわからなくなった。一人の町人が提灯《ちょうちん》をつけて歩いていた。ちょっと躊躇《ちゅうちょ》した後に彼はその人に尋ねてみようと決心した。そしてまず、だれかが自分の発しようとする問いを聞きはしないかを恐るるもののように、前後を見回した後に言った。
「ちょっと伺いますが、裁判所はどこでしょう。」
「あなたは町の人ではないと見えますね。」
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