し得る。今日において普通の順序により王となり得るはただ牧師あるのみである。しかもその王たるや最上の王である。ゆえに神学校なるものはいかに高きへの野心を起させるところなるか! 顔を赤らめる合唱隊の子供のいかに多くが、年わかき法師のいかに多くが、ペルレットの牛乳の壺《つぼ》を頭にいただくことであるか!([#ここから割り注]訳者注 ペルレットとはラ・フォンテーヌの物語中の娘、町に売りにゆく牛乳の代より大なる幸運を夢想し、それに心を奪われて途中牛乳の壺を地上に落としてしまったのである[#ここで割り注終わり])しかして野心は、自らおのれをごまかしながらしかもおそらくはまじめに、いかに恬然《てんぜん》として天職の名を容易に僣することであるか!
 ビヤンヴニュ閣下は、謙譲で貧しく独特な性質の人であって、右の大なる司教の冠のうちにはいらなかった。それは彼のまわりに年若い牧師が一人も集まっていないことからでも明らかにわかるのであった。パリーにおいても「彼はうまくやらなかった」ことは、既に述べたとおりである。未来を望む者は一人として、この孤独な老人によって身を立てようと思う者はなかった。野心の芽をもつ者で
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