。彼がその谷合いに住んでいらい、そこに通ずる一筋の小道は草におおわれてしまった。そこのことを人々は死刑執行人の住家のように言っていた。
 けれども司教はそれに思いを馳《は》せ、一群《ひとむれ》の木立ちがその年老いた民約議会員のいる谷間を示しているあたりを時折ながめた。そして言った、「彼処《あそこ》に一人ぽっちの魂がある。」
 そして彼は胸の奥でつけ加えて言った。「私は彼を訪れてやるの責がある。」
 しかし実を言えば、一見きわめて自然なことのように見えるその考えは、少しの考慮の後には尋常ならぬ不可能なことのように彼には思えた、そしてほとんど嫌悪《けんお》すべきことのようにさえ思えた。何となれば、彼もまた内心一般の人々と同じ印象を受けていた。そして彼自らはっきり自覚はしなかったが、この民約議会員は憎悪《ぞうお》に近い感情を、敬遠という言葉によってよく現わさるる一種の感情を、彼の心に吹き込んでいたのである。
 けれども、羊の悪病は牧人を後《しり》えに退かしむるであろうか。いな。とはいえ何という羊であるかよ!
 善良な司教は困惑していた。時とするとその方へ出かけてみたが、また戻ってきた。
 ところがある日、一の噂《うわさ》が町にひろがった。その陋屋《ろうおく》の中で民約議会員G《ゼー》に仕えていた牧者らしい若者が、医者をさがしにきたそうである。年老いた悪漢はまさに死にかかっている。全身|麻痺《まひ》している。今晩がむつかしい。「ありがたいことだ!」とある者はその話の終わりにつけ加えた。
 司教は杖《つえ》を取った。それから、前に言ったとおりあまりすり切れている法衣を隠すためと、間もなく吹こうとする夕の風を防ぐために、外套を着た。そして家を出かけた。
 日は傾いてまさに地平線に沈まんとする頃、司教はその世を距《へだ》てた場所に着いた。小屋の近くにきたことを知って、一種の胸の動悸《どうき》を覚えた。溝《みぞ》をまたぎ、生籬《いけがき》を越え、垣根《かきね》を分け、荒れはてた菜園にはいり、大胆に数歩進んだ。すると突然、その荒地の奥の高く茂った茨《いばら》の向こうに一つの住家が見えた。
 それは軒低い貧しげなこぢんまりした茅屋《ぼうおく》であって、正面にぶどう棚がつけられていた。
 戸の前に、農夫用の肱掛椅子《ひじかけいす》である車輪付きの古い椅子に腰掛けて、白髪の一人の男が太陽を
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