閲兵式(五月の野)は六月の練兵場(三月の野)で開かれたので注意をひいた。一八一七年には二つのことが世間に評判だった、それはトゥーケのヴォルテール本とシャルトの煙草《たばこ》入れとであった。新しくパリー人の視聴を欹《そばだ》てたことは、マルシェ・オー・フルールの池の中に自分の兄弟の首を投げ込んだドウトンの罪悪であった。海軍省では、あのショーマレーに不名誉を与えジェリコーの名をあげさした不幸なる二等艦メデューズ号について調査をはじめた。セルヴ大佐はソリマン総督になるためにエジプトに赴《おもむ》いた。アルブ街のテルムの邸宅は桶屋《おけや》の店になった。クリュニーの邸《やしき》の八角塔の平屋根の上には、ルイ十六世の時の海軍の天文学者であるメシエが観象台に使った板囲いの小屋が、まだ残って見えていた。デューラー公爵夫人は、青い空色の繻子《しゅす》を張ったX脚の床几《しょうぎ》がそなえてある自分の化粧室で、禁止になったウーリカ[#「ウーリカ」に傍点]を三、四人の友に読んできかしていた。ルーヴルの美術館では、ナポレオンの頭字Nはすべてのものから消されていた。オーステルリッツ橋はその名が廃せられてジャルダン・デュ・ロア橋となっていた、それはオーステルリッツ橋とジャルダン・デ・プラント園とを同時に隠した二重の隠語である。ルイ十八世は爪先《つまさき》でホラチウスの書に線を引いて読みながら、自ら皇帝となる英雄や自ら皇帝の後継となる賤民《せんみん》などのことを考えつつ、二つの心配を持っていた、すなわちナポレオンとマチュラン・ブリュノーとであった。フランスのアカデミーはその懸賞課題に研学によりて得らるる幸福[#「研学によりて得らるる幸福」に傍点]というのを出していた。ベラール氏はまったく堂々たる雄弁であって、ポール・ルイ・クーリエの譏刺《きし》を思わするあの未来のブローの検事と育ちつつあった。マルシャンジーと呼ぶ似而非《えせ》シャトーブリアンがいた、と一方にはアルランクールという似而非《えせ》マルシャンジーも出かかっていた。クレール[#「クレール」に傍点]・ダルブ[#「ダルブ」に傍点]とマレ[#「マレ」に傍点]・カデル[#「カデル」に傍点]との二つの書物は傑作であった、そしてコタン夫人は当時の第一流の作家だといわれていた。学士院会はその帳簿からアカデミー会員ナポレオン・ボナパルトの名前を抹殺《
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