見たことがなかった。その信頼しきった様は彼を恐れさした。精神の世界において最も壮大なる光景は、まさに悪事をせんとしながらしかも正しき人の睡眠をながめている、乱れた不安な人の本心がそれである。
 孤独のうちにおけるその眠り、そして彼がごとき者を隣に置いてのその眠りは、何かしら厳《おごそ》かなるものを持っていた。彼はそれを漠然と、しかし強く感じた。
 彼のうちにいかなることが起こったか、それはだれにも言えないであろう、そして彼自身でさえも。それを推測せんがためには、まず最も穏やかなるものと最も暴戻《ぼうれい》なるものとの対立を想像してみるがよい。彼の顔の上にさえ、確かに認め得らるるものは何もなかったであろう。それは一種の野性の驚愕《きょうがく》であった。彼はそれをじっと見ていた。それだけである。しかし彼の考えは何であったか。それを推察するは不可能であろう。ただ明らかなのは、彼が感動し顛倒《てんとう》していたことである。しかしその感激はいかなる性質のものであったか。
 彼の目は老人から離れなかった。彼の態度とその顔付きとに明らかに浮き出していたただ一つのことは、異様な不決断であった。あたかも一は身を亡《ほろ》ぼし一は身を救う二つの深淵の間に躊躇《ちゅうちょ》していたとも言えよう。その眼前の頭脳を打ち砕くか、もしくはその手に脣《くちびる》をつけるか、いずれかをしようとしているもののようであった。
 数分の後、彼の左手はおもむろに額に上げられた。彼は帽子をぬいだ。それから手は同じくおもむろに、また下された。そしてジャン・ヴァルジャンはまたうちながめはじめた、帽子を左手に持ち、棍棒《こんぼう》を右手に持ち、あらあらしい頭の上に髪の毛を逆立たして。
 司教はその恐るべき凝視の下にあって、なお深き平和のうちに眠っていた。
 月の光の反映は、暖炉の上に十字架像の姿をぼんやり見せていた。それは両手を開いて、一人には祝福を与え一人には赦免《しゃめん》を与えるために、その二人を抱かんとするかのようであった。
 突然、ジャン・ヴァルジャンは額に帽をかぶった。それから、司教の方を見ずに寝台に沿って足を早めながら、その枕頭に見えている戸棚の方へまっすぐに行った。彼は錠前をこじあけようとするかのように鉄の燭台を高くあげた。が、そこには鍵《かぎ》がついていた。彼は開いた。第一に彼の目にはいったものは
前へ 次へ
全320ページ中112ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ユゴー ヴィクトル の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング