にその温良さを神聖の域にまで高めたのであった。自然は彼女を単に一個の牝羊《めひつじ》に造ったが、宗教は彼女を天使たらしめた。あわれなる聖《きよ》き女よ! 消え失せし楽しき思い出よ!
バティスティーヌ嬢はその晩司教の家に起こったことを爾来《じらい》しばしば繰り返し話したので、その詳細を思い出し得る人は今もなおたくさんある。
さて司教が食堂にはいってきた時、マグロアールは元気に話をしていた。いつも老嬢によく話すことで司教にもなじみの事がらだった。すなわち入り口の戸の締まりに関してであった。
夕食のために何か買い物に行った時、マグロアールは、方々で話されていることを聞いてきたらしい。悪い顔つきの風来漢の噂が種々なされていた。怪しい浮浪人がやってきた。町のどこかにいるに違いない。今晩遅く家に帰ろうとでもする人があれば、その男に出会って悪いことが起こるかも知れない。その上、県知事と市長とが反目して何か事件を起こしては互いにおとしいれようとしている際なので、警察の働きもすこぶるまずい。それで賢い者はみずから警察の働きをなし、みずから警戒すべきである。そして、堅く締まりをし閂《かんぬき》をさし横木を入れておかなければならない、よく戸を閉ざしておかなければならない[#「よく戸を閉ざしておかなければならない」に傍点]。
マグロアールはその終わりの文句に力を入れた。しかし司教は、かなり寒さを感じていた自分の室からやってき、暖炉の前にすわって暖まり、それから何か他のことを考えていて、マグロアールが口にした言葉を別に心にかけなかった。マグロアールはそれを再び繰り返した。その時バティスティーヌ嬢は、兄の気にさわらないでしかもマグロアールを満足させようと思って、おずおずと言ってみた。
「お兄さん、マグロアールの言ってることを聞かれましたか。」
「何かぼんやり聞いたようだが。」と司教は答えた。それから半ば椅子を回して、両手を膝の上に置き、わけなく楽しげな親しい顔を老婢《ろうひ》の方へあげた。火が下からその顔を照らしていた。「ええ、何だい? 何かあるのかね? 何か恐ろしい危険でもあるというのかね。」
するとマグロアールは、またその話をすっかりやり直して、自分で気もつかなかったがいくらか誇張して話した。一人の放浪者が、一人の非人が、ある危険な乞食《こじき》が、今ちょうど町にきているらしい。
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