た。
 果してそれは一軒の居酒屋であった。シャフォー街にある居酒屋であった。
 旅人はちょっと立ち止まって、窓からその中をのぞいてみた。天井の低い室のうちは、テーブルの上に置かれた小さなランプと盛んな炉の火とで照らされていた。四五人の者が酒を飲んでおり、主人は火に当たっていた。自在|鈎《かぎ》につるしてある鉄の鍋は火に煮立っていた。
 その居酒屋はまた同時に一種の宿屋であって、はいるには二つの戸口があった。一つは通りに開《あ》いているし、一つは廃物がいっぱい散らかってる小さな中庭に開いている。
 旅人は通りに面した入り口からはいることをはばかった。彼は中庭にはいりこみ、なおちょっと足を止め、それからおずおずと※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かきがね》をあげて戸を押した。
「だれだ、そこに居るのは。」と主人は言った。
「晩飯と一泊とをお願いしたいんです。」
「よろしい。晩飯と一泊ならここでできる。」
 彼ははいってきた。酒を飲んでいた人々は皆ふり向いた。ランプがその半面を照らし炉の火が他の半面を照らしていた。彼が背嚢をおろしている間、人々はしばらく彼をじろじろながめた。
 主人は彼に言った。「火がおこっている。晩飯は鍋で煮えているから、まあこっちへきて火に当たりなさるがいい。」
 彼は炉火のそばに行って腰を掛けた。疲れきった両足を火の前に伸ばした。うまそうなにおいが鍋から立っていた。目深にかぶった帽子の下から見えている彼の顔のうちには、安堵《あんど》の様子と絶えざる苦しみから来る険しい色とがいっしょになって浮かんでいた。
 それはまたしっかりした精悍《せいかん》なそして陰気な顔つきであった。変に複雑な相貌で、一見しては謙譲に見えるが、やがて峻酷《しゅんこく》なふうに見えて来る。目はちょうどくさむらの下に燃ゆる火のように眉毛《まゆげ》の下に輝やいていた。
 ところが、テーブルにすわっていた人々のうちに一人の魚屋がいた。彼はこのシャフォー街の居酒屋にやって来る前に、自分の馬をラバールの家の廐《うまや》に預けに行ったのだった。また偶然その日の午前にも、彼はその怪しい男がブラ・ダスと……(名前は忘れたがエスクーブロンであったと思う)との間を歩いているのに出会った。男はもう大変疲れているらしく、彼に出会うと、馬の臀《しり》の方にでも乗せてくれないかと頼んだ。
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