その時旅人は前かがみになって、杖の先の金具の所で火の中に燃え残りを押しやっていたが、急にふり返った。そして彼が何か答弁しようとして口を開いた時に、主人はじっと彼を見つめて、やはり低い声でつけ加えた。「さあもう文句を言うには及ばない。君の名を言ってあげようか。君はジャン・ヴァルジャンというのだ。それから君がどんな人だか言ってあげようか。君がはいって来るのを見て、あることを感づいたんだ。私は市役所に人をやった。そしてここに役所からの返事がある。君は字が読めるだろう。」
 そう言いながら彼はその見知らぬ男へ、宿屋と市役所との間を往復した紙片をすっかりひろげて差し出した。男はその上に一|瞥《べつ》を与えた。亭主はちょっと沈黙の後にまた言った。
「私はだれに向かっても丁寧にするのが習慣《ならわし》だ。出て行きなさい。」
 男は頭をたれ、下に置いてる背嚢をまた取り上げ、そして出て行った。
 彼は大通りの方へ進んで行った。はずかしめられ悲しみに沈んでいる者のように、彼は人家のすぐ傍《わき》に寄って、ただ当てもなくまっすぐに歩いて行った。一度も後ろを振り返らなかった。もし振り返ったならば彼は、クロア・ド・コルバの亭主が入り口に立っていて、宿の客人たちや通りすがりの人たちにとりかこまれて、声高に話しながら彼の方を指《さ》しているのを見たであろう。そしてまた、群集の目付の中にある軽侮や恐怖の色によって、彼がやってきたことはやがて町中の一事件となるだろうということを見て取ったであろう[#「見て取ったであろう」は底本では「見て取ったのであろう」]。
 が彼はそれらのことを何にも見なかった。絶望しきった者は自分の後ろを振り返り見ないものである。悪い運命が自分の後について来るのをあまりによく知っている。
 彼はそうしてしばらく歩いて行った。ちょうど悲しみに沈んだ時に人がなすように、知らない通りをむやみに歩きながら疲れも忘れてただ歩き続けた。と突然彼は激しく空腹を感じた。夜は迫っていた。彼は何か身を宿すべき場所はないかと思ってあたりを見回した。
 りっぱな宿屋は彼に対して閉ざされたのである。彼は粗末な居酒屋《いざかや》か貧しい下等な家をさがした。
 ちょうど通りの向こうの端に燈火《あかり》がひらめいていた。鉄の支柱につるされている一本の松の枝が薄暮のほの白い空に浮き出していた。彼はそこへ行ってみ
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