あること、生の力強い喜びはけっして尽きないこと、などを考え浮かべた。彼は息をつまらせながら、もう思うままにならない声で――(おそらく彼の喉《のど》からはなんらの声音も出なかったろうが、彼はそれに気づかなかった)――生にたいする賛歌を歌った。
眼に見えない管弦楽団が彼の歌に答えた。彼は考えた。
「どうして彼らはあんなことを知ってるのだろう? 練習をしたこともないのに。間違えずに最後までやってくれればいいが!」
彼は両腕を振り動かして拍子を取りながら、管弦楽団の全員に見えるようにと、身を起こしてすわろうとした。でも管弦楽団は間違いをしなかった。自分たちの腕前を確信していた。なんという霊妙な音楽だろう! 今や彼らは照応の曲を即興演奏しはじめていた。クリストフは面白くなってきた。
「ちょっと待て、面白い奴《やつ》らだ。俺がみごとにとらえてやる。」
そして彼は水|棹《さお》でぐっと一突きして、舟を気ままに右や左へあやつりながら危険な水路の中へはいっていった。
「どうしてこんな所を乗り越せるのか?……またそんな所を?……そらとらえたぞ!……またもやそんな所へ?」
彼らはいつもうまく乗り越していった。彼の大胆さに対抗して、さらにいっそう危険な冒険をした。
「何をしでかすことやらわからない。狡猾《こうかつ》な奴らめ!……」
クリストフは喝采《かっさい》の声をあげまた大笑いをした。
「畜生! あとについてゆくのがむずかしくなってきたぞ! 俺のほうが負かされるかしら……。おい冗談じゃないぞ! 今日俺は疲れてるんだ……。なに構うものか。君らが最後の勝利を占めるとはきまってやしない……。」
しかしその管弦楽団はいかにも豊麗ないかにも新しい幻想曲《ファンタジア》を演奏しだしたので、ぼんやり口を開いて聞いてるよりほかにもうしかたがなかった。聞いてると息がつまるほどだった……。クリストフは自分を憐《あわ》れんだ。
「馬鹿め!」と彼は自分に言った、「貴様は空《から》っぽになったのか。黙っちまえ! できるだけの音を出してしまった楽器め。もうこの身体にはたくさんだ。俺にはもっと別な身体が必要だ。」
しかし身体は彼に意趣返しをした。ひどい咳《せき》の発作が起こって彼の聴くのを妨げた。
「黙らないか!」
彼は敵をでも取り拉《ひし》ごうとするかのように、自分の喉首をとらえ、拳固《げんこ》で自分の胸を打ちたたいた。そして争闘のまん中にいる自分を見出した。大勢の人が怒号していた。一人の男が彼の胴体につかみかかってきた。二人はいっしょにころがった。相手は彼の上にのしかかった。彼は息がつまってきた。
「放してくれ、俺は聴きたいのだ!……俺は聴きたいのだ!……放さなけりゃ殺すぞ!」
彼は相手の頭を壁にたたきつけてやった。それでも相手は放さなかった……。
「いったい俺が今相手にしてるのは何者だろう? 俺は何者と組み打ちをしてるのか? 俺が引っつかんでるこの身体は、俺を焼きつくすこの身体は、どういうものなのか?……」
それは幻覚的な格闘だった。あらゆる情熱の混乱だった。激怒、淫逸《いんいつ》、殺害の渇望、肉の抱擁の噛《か》み合い、最後にも一度かきたてられた池の泥土《でいど》だった……。
「ああ、早くおしまいにならないのか。俺の肉体にくっついてる蛭《ひる》ども、貴様らを取り除《の》けることが俺にできないことがあるものか……。肉体よ、蛭といっしょに剥《は》げ落ちてしまえ!」
クリストフは肩や腰や膝《ひざ》に力をこめて、眼に見えない敵を追い払った……。彼は自由となった!……彼方《かなた》には、音楽がやはり演奏されながら遠ざかっていった。クリストフは汗まみれになって、そのほうへ両腕を差し出した。
「待ってくれ、俺を待ってくれ!」
彼はその音楽へ追いつこうとして駆け出した。つまずきよろめいた。あらゆるものを押しのけていった……。あまり早く駆けたので、もう息がつけなかった。心臓が高鳴り、血の音が耳に響いていた。隧道《トンネル》の中を走る汽車のようだった……。
「ああ、忌々しい!」
彼は自分を待たずに演奏しつづけてくれるなと、管弦楽団へ必死となって合図をした……。ついに隧道《トンネル》から出た……。沈黙がもどってきた。ふたたび音楽が聞こえてきた。
「いい、実にいい! もっとやれ! 思い切ってやれ!……だがいったいだれの曲なんだ?……なんだって、その音楽はジャン・クリストフ・クラフトのだって? どうしたことだ! 馬鹿を言うな! 俺はあの男を多少知ってる。あの男はそんなものを、少しもかつて書いたはずはない……。まだ咳《せき》をしてるのはだれだ? そんなに音をたてるな! その和音はなんというんだ? そしてこんどのは?……そんなに早く進むな! 待ってくれ!……」
クリストフは呂律《ろれつ》の回らぬ叫び声をたてていた。その手は毛布を握りしめながら、そこに物を書くような格好をしていた。そして疲れきった彼の頭脳は、それらの和音がどういう成分でできてるかを、またどういう意味を告げてるかを、機械的に詮索《せんさく》しつづけていた。しかしどうしても捜し出すことができなかった。感激のあまりとらえる手先に力がはいらなかった。彼はまたやり始めた……。ああこんどは、あまりに……。
「やめてくれ、やめてくれ、もう俺にはどうにもできない……。」
彼の意志はまったくゆるんでしまった。静かに彼は眼をふさいだ。幸福の涙が閉じた眼瞼《まぶた》から流れた。そばについてる小娘が、慎《つつ》ましくその涙を拭《ふ》いてくれたが、彼はそれに気づかなかった。彼はこの下界に起こってることをもう何にも感じなかった。管絃楽は沈黙してしまって、眩暈《めまい》を起こさせるほどの諧調《かいちょう》の上に彼を取り残した。その諧調の謎《なぞ》は解けていなかった。彼の頭脳はなお強情に繰り返した。
「いったいこの和音は何物だろう? どうしたらこれから抜け出せるだろうか。どうあっても出口を見出したいものだ、おしまいにならない前に……。」
こんどは人声が起こってきた。情熱のこもったある声。アンナの悲痛な眼……。しかし瞬間に、それはもうアンナではなかった。温情に満ちてるあの眼……。
「グラチア、お前なのか?……だれだい、だれだい? 私はもうよく見てとれない……。どうして太陽はこういつまでも出ないんだろう?」
静かな三つの鐘が鳴った。窓ぎわの雀《すずめ》たちがさえずって、昼食の屑《くず》をもらうべき時間を彼に思い出させようとした……。クリストフは自分の子供のころの室を夢に見た……。鐘が鳴る。夜明けだ! 美しい音の波は軽やかな空気の中を流れてくる。それはごく遠くから、彼方《かなた》の村々からやってくる……。河の響きが家の後ろに起こっている……。クリストフは階段の窓口に肱《ひじ》をついてる自分の姿を思い浮かべた。彼の全|生涯《しょうがい》はライン河のように眼の下に流れていた。全生涯、いろいろな生活、ルイザ、ゴットフリート、オリヴィエ、ザビーネ……。
「母よ、恋人たちよ、友人たちよ……彼らはどういう名前だったかしら?……愛よ、君はどこにいるのか。私の魂たちよ、どこにいるのか。私は君たちがそこにいることを知っているが、君たちをとらえることができない。」
「私たちはあなたといっしょにいます。愛《いと》しい人よ、安らかに!」
「私はもう君たちを失いたくない。私はどんなに君たちを捜したろう!」
「心配してはいけません。私たちはもうあなたのもとを離れはしません。」
「ああ、私は流れにさらわれてゆく。」
「あなたを運んでゆく河は、私たちをもあなたといっしょに運んでいるのです。」
「どこへ行くのだろう?」
「私たちが皆いっしょに集まる場所へ行くのです。」
「じきに行きつくかしら?」
「御覧なさい。」
そしてクリストフは、必死の努力をして頭をもたげ――(ああなんと重いことだったか!)――漫々たる大河を見た。それは野を覆《おお》いながら、ほとんど不動なほどおもむろに厳《おごそ》かに流れていた。水平線のほとりに、鋼鉄の光に似たものがあって、日光に震えてる一筋の銀波が彼のほうへ駆けてくるかと思われた。大洋のとどろき……。彼の心は消え入りながらも尋ねた。
「あれが彼[#「彼」に傍点]か?」
愛する人たちの声が答えた。
「あれが彼[#「彼」に傍点]です。」
一方では、死にかかってる頭脳が考えた。
「扉《とびら》が開ける……。私が捜していた和音はここにある……。しかしこれが終局ではないのだな。なんという新たな広さだろう……われわれは明日も存続するだろう。」
おう喜悦、一生の間努めて奉仕してきた神の崇厳な平和のうちに没し去るの喜悦!……
「主《しゅ》よ、汝の僕《しもべ》にたいしてあまりに不満を感じたもうな。わがなせしところははなはだわずかであった。されどわれはそれ以上をなし得なかった……。われは戦い、苦しみ、さ迷い、創造した。われをして汝のやさしき腕の中に息をつかせたまえ。他日われは新たなる戦いのためによみがえるであろう。」
そして大河の響きと海のとどろきとは、彼といっしょに歌った。
「汝はよみがえるであろう。休息するがよい。すべてはもはやただ一つの心にすぎない。からみ合った昼と夜との微笑《ほほえ》み。愛と憎悪との厳《おごそ》かな結合、その諧調《かいちょう》。二つの強き翼をもてる神を、われは歌うであろう。生を讃《たた》えんかな! 死を讃えんかな!」
[#ここから3字下げ]
いかなる日もクリストフの顔をながめよ、
その日汝は悪《あ》しき死を死せざるべし。
[#ここで字下げ終わり]
聖クリストフは河を渡った。夜通し彼は流れに逆らって進んだ。強壮な四|肢《し》をもってる彼の身体は、巌《いわお》のごとく水の上に浮き出している。その左の肩には、か弱い重い小児[#「小児」に傍点]がのっている。聖クリストフは引き抜いてきた松の木に身をささえる。その木は撓《たわ》む。彼の背骨も撓む。彼が出発するのを見た人々は、けっして向こうに着けはしないと言った。そして長い間彼の後ろから、嘲《あざけ》りと笑いとを浴びせた。やがて夜となって、彼らは飽き果てた。もうクリストフは、岸に居残ってる人々の叫び声が届かないほど、遠くに来ている。急流の響きのうちに、小児[#「小児」に傍点]の静かな声が聞こえるばかりである。小児[#「小児」に傍点]はその小さな拳《こぶし》に、巨人クリストフの額の縮れ毛を一|房《ふさ》つかんで、「進め!」と繰り返している。――彼は背をかがめ、眼を前方の薄暗い岸に定めて、進んでゆく。向こう岸の懸崖《けんがい》は白み始める。
突然、|御告の祈《アンジェリユス》の鐘が鳴る。そして多くの鐘の群れが、一時に躍《おど》りたって眼覚《めざ》める。今や新たなる曙《あけぼの》! そびえ立った黒い断崖《だんがい》の彼方《かなた》から、眼に見えぬ太陽が金色の空にのぼってくる。クリストフは倒れかかりながらも、ついに向こう岸に着く。そして彼は小児[#「小児」に傍点]に言う。
「さあ着いたぞ! お前は実に重かった。子供よ、いったいお前は何者だ?」
すると小児[#「小児」に傍点]は言う。
「私は生まれかかってる一日です。」
[#地から2字上げ]――了――
底本:「ジャン・クリストフ(四)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年9月16日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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