ていた。――二人は音楽のことばかりを話しはしなかった。和声《ハーモニー》に関してジョルジュは、絵画や風景や人の魂のことなどをもち出した。彼を制御するのは困難だった。たえず道のまん中へ引きもどさなければならなかった。そしてクリストフのほうにも、常にその勇気があるわけではなかった。機知と生気とに満ちてる少年の愉快な饒舌《じょうぜつ》を聞くのが、彼には面白かった。この少年とオリヴィエとはいかに性質が異なっていたことだろう!……オリヴィエのほうでは生命は、黙々として流るる内部の河であった。ジョルジュのほうでは、生命はすべて外部にあって、日の下で遊び疲れる気まぐれな小川であった。それにしても、どちらもその眼と同じように美しい清い水だった。クリストフは微笑《ほほえ》ましい心持で、ジョルジュのうちに見出した、ある種の本能的な反感を、自分がよく知ってるあの嗜好《しこう》と嫌厭《けんえん》とを、そしてまた、無邪気な一徹さを、愛するものに傾倒してしまう心の寛大さを……。ただジョルジュはあまりに多くのことを愛していたので、同じ一つのものを長く愛するだけの隙《ひま》がなかった。
 彼は翌日もまたやって来たし、それから引きつづいて毎日やってきた。彼はクリストフにたいする若気の美しい情熱に駆られ、熱狂的に稽古《けいこ》を励んだ……。――それから、熱狂は弱ってき、やって来ることも間遠《まどお》になった。だんだん来なくなった……。つぎにはまったく来なくなった。そして幾週間も姿を見せなかった。
 彼は軽率で、忘れっぽくて、無邪気な利己主義者で、しんから人なつこかった。やさしい心と活発な知力とをそなえていて、それを日に日に少しずつ使い果たしていた。彼を見ると愉快だったから、だれでも彼に万事を許してやった。彼は幸福だった……。
 クリストフは彼を批判すまいとした。そして不平を言わなかった。彼はジャックリーヌに手紙を書いて、子供をよこしてくれたことを感謝しておいた。ジャックリーヌは感動を押えつけた短い返事をくれた。ジョルジュに同情を寄せて世の中に導いてくれと、彼に願った。彼に会うことについては一言も述べなかった。憚《はばか》られる思い出と矜持《きょうじ》とのために、彼に会おうと決心することができなかった。そしてクリストフのほうでは、彼女から招かれないかぎりはやって行けないと思った。――かくて彼らはたがいに離れたままでいて、ときどき音楽会で遠くから認め合ったり、少年のときおりの訪問で結ばれたりするきりだった。

 冬は過ぎ去った。グラチアはもうまれにしか手紙をくれなかった。彼女はクリストフにたいして忠実な友情をなおいだいていた。しかしきわめて感傷的でなくて現実に執着する真のイタリー婦人だったから、多くの人に会わずにはいられなかった。それは彼らのことを思うためではないとしても、少なくとも彼らと話をする楽しみを得んがためであった。またときどき眼の記憶を新たにしなければ、心の記憶は消えがちだった。それで彼女の手紙はしだいに短くなり疎遠になった。クリストフが彼女を信じてると同様に、彼女もなおクリストフを信じてはいた。しかしその信頼は熱よりもむしろ光を多く広げるものであった。
 クリストフはその新たな違算を大して苦しみはしなかった。音楽的活動は彼を満たすに十分だった。ある年齢に達すると、強健な芸術家は自分の生活のうちによりも多く自分の芸術のうちに生きる。生活は夢となり、芸術は現実となる。パリーと接触して、クリストフの創作力は眼覚《めざ》めたのだった。この勤勉な都会たるパリーの光景ほど、人に強い刺激を与えるものはない。もっとも冷静な者もその熱に感染する。健全な孤独のうちに多年休息してきたクリストフは、費やすべき多量の力をもって来ていた。フランス精神の勇敢な好奇心が音楽技術の世界にたえずなしつづけている、種々の新しい獲物に彼は富ませられて、こんどは自分でも発見の道に突進していった。そして彼らよりもいっそう猛烈で野蛮だったから、彼らのだれよりもさらに遠くへ進んでいった。しかしその新たな冒険においては、もはや何一つ本能の偶然に委《ゆだ》ねられたものはなかった。彼はもう明確の要求に支配されていた。彼の天才は生涯《しょうがい》中、ある交流的|律動《リズム》に従ってきたのだった。一つの極端から他の極端へと代わる代わる移っていって、両者の間のすべてを包括することが、彼の掟《おきて》であった。前期において彼は、「秩序の覆面を通して輝く渾沌の眼[#「秩序の覆面を通して輝く渾沌の眼」に傍点]」に熱中した後、その眼をなおよく見んために覆面《ヴェール》を引き裂こうとした刹那《せつな》、このたびはその蠱惑《こわく》から脱せんとつとめ、主宰的精神の魔法の網を、スフィンクスの顔にふたたび投げかけようとしていた
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