彼女は彼の愛しまた苦しんでる心を、あたかもそれが自分の胸の中に鼓動してるかのように聞きとった。
彼は和声《ハーモニー》をひき終えてから、なおしばらくピアノの前にじっとしていた。それから、泣いてる彼女の息づかいを聞いて振り向いた。彼女は彼のところへ寄って来た。
「ありがとう。」と彼女は彼の手を取りながらつぶやいた。
彼女の口は少し震えていた。彼女は眼を閉じた。彼も同じく眼を閉じた。二人は手を取り合ってしばらくそのままでいた。時の歩みも止まった……。
彼女は眼を開いた。感動から脱しようとして尋ねた。
「ほかのところをも見せてくださいませんか。」
彼も激情からのがれるのを喜んで、隣室の扉《とびら》を開いた。しかしすぐに恥ずかしくなった。そこには狭い堅い鉄の寝台が一つあった。
――(あとになって、自分の家に情婦を引き入れたことなんかないと彼がグラチアに打ち明けたとき、彼女はひやかすような様子で言った。
「そうでしょうとも。女のほうにたいへんな勇気がいるでしょうから。」
「なぜですか。」
「あなたの寝台で眠るには。」)――
そこにはまた、田舎《いなか》風の箪笥《たんす》が一つあり、ベートーヴェンの鋳物の頭像が壁にかかってい、寝台のそばの安物の額縁に、母親とオリヴィエとの写真が入れてあった。箪笥の上にはも一つ写真があった。それは十五歳のおりのグラチアの写真だった。ローマで彼女の家の写真帳の中に見つけて、盗んできたものだった。彼はそれを自白しながら許しを求めた。彼女は写真の姿をながめて言った。
「あなたはあれを私だとおわかりになりますか。」
「わかります。よく覚えています。」
「今の私とどちらがお好きですか。」
「あなたはいつでも同じです。私はあなたをいつまでも同じように好きです。どんなものでもあなたを見てとることができます。ごく小さなときの写真ででも見てとることができます。この幼い姿の中にもあなたの魂をすっかり感じて、私がどんな感じに打たれてるか、あなたは御存じありますまい。あなたが永久に変わらないことを、これほどよく私に知らしてくれるものはありません。私があなたを愛しているのは、あなたの生まれない前からです、そしてずっと……後まで……。」
彼は口をつぐんだ。彼女は情愛をそそられて返辞ができなかった。書斎にもどってきて、雀《すずめ》がさえずってる親しみ深い小さな木
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