に永遠にわたるイーリアスであった。トロイのそれに比ぶれば、アルプス連山とギリシャの小丘との対比に等しかった。
 驕慢《きょうまん》と戦闘行為とのそういう叙事詩は、クリストフの魂のようなヨーロッパ的魂には縁遠かった。それでも、フランス魂の幻像――楯《たて》をもってる窈窕《ようちょう》たる処女、闇《やみ》の中に輝く青い眼のアテネ、労働の女神、類《たぐ》いまれなる芸術家、または、喧騒《けんそう》してる蛮人らを煌々《こうこう》たる鎗でなぎ倒す至上の理性など――のうちに明滅する、かつて愛したことのある見|馴《な》れた一つの眼つきを、一つの微笑を、クリストフは見てとった。けれどその幻像をとらえようとすると、それはすぐに消え失《う》せてしまった。そして彼はいらだってそのあとをいたずらに追っかけながら、ふとあるページをめくってみると、オリヴィエが死ぬる数日前に話してくれた物語を見出した。
 彼は心転倒した。その書物の出版所に駆けつけて詩人の住所を尋ねた。出版所では慣例によってそれを教えてくれなかった。彼は腹をたてたがどうにもできなかった。最後に年鑑によって手掛りを得ようと思いついた。果たしてそれが見つかったので、すぐに詩人の家へやっていった。彼は何かしたくなるとどうしても待つことができないのだった。
 バティニョール町のある最上階だった。幾つもの扉《とびら》が共通の廊下についていた。クリストフは教わった扉をたたいた。すると隣の扉が開かれた。濃い栗毛《くりげ》の髪を額に乱し、曇った色|艶《つや》をし、眼の鋭い顔のやつれた、少しもきれいでない若い女が、なんの用かと彼に尋ねた。疑念をいだいてるらしい様子だった。彼は訪問の目的を述べ、名前を尋ねられたのでそれを明かした。彼女は自分の室から出て来て、身につけてる鍵《かぎ》で隣の扉を開いた。しかしすぐには彼をはいらせなかった。廊下で待ってるようにと言って、自分一人中にはいりながら彼の鼻先に扉を閉《し》めた。ついに彼はその用心のいい住居の中に通された。食事室になってる半ばがらんとした室を通った。破損した家具が少し並べてあるきりだった。窓掛もない窓ぎわに、十羽余りの小鳥が籠《かご》の中で鳴いていた。そのつぎの室の中に、一人の男が擦《す》れ切れた長|椅子《いす》の上に横たわっていた。そしてクリストフを迎えるために身を起こした。魂の輝きを浮かべてる憔悴
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