日来食事もほとんどしていなかった。眼の前に霧がかかってるようだった。彼は谷の方へ降りていった。――それは復活祭の週間だった。曇り日だった。冬の最後の襲撃が打ち負かされていた。暖かい春が醸《かも》されていた。下のほうの村々から鐘の音が聞こえてきた。最初にその音を送ってきた村は、山のふもとの窪《くぼ》地に巣のようにうずくまって、ビロードのような厚い苔《こけ》に覆《おお》われた、黒色や金|褐《かっ》色などいろんな色の藁《わら》屋根を並べていた。つぎの村は、山の向こう側の斜面にあって見えなかった。つぎには、河の彼方の平野にある村々。そしてずっと遠方には、靄《もや》の中に隠れてる町から来る大鐘の音……。クリストフは立ち止まった。心はつぶれそうになっていた。それらの鐘の音はこう言うかのようだった。
「われわれといっしょに来たまえ。ここにこそ平和がある。ここでは悲しみは死にうせる。思考とともに死にうせる。われわれは魂をうまく揺《ゆ》すってやるので、魂はわれわれの腕に抱かれて眠ってゆく。ここへ来て、休みたまえ、君はもう眼を覚《さ》ますことがないだろう……。」
 いかに彼は疲れきってたことだろう! いかに彼は眠りたがってたことだろう! しかし彼は頭を振って言った。
「僕が求めているのは平和ではない、生なのだ。」
 彼はまた歩きだした。みずから気づかずに幾里も歩き通した。夢幻的な衰弱の状態にあったので、もっとも単純な感覚も意外の反響を伴ってきた。彼の思想は地上や空中に奇怪な光を投射していた。日に照らされた白い寂しい道の上に、何物の影とも知れない一つの影が前方にさすと、彼はぞっと震え上がった。
 ある森の出口まで来ると、彼は一つの村の近くに出た。彼は道を引き返した。人を見るのが嫌《いや》だった。それでも彼は、村の上方にある一軒家のそばを通らねばならなかった。その家は山腹を背にしていて、療養院らしいふうだった。日の光を受けた大きな庭に取り巻かれていた。数人の者が不確かな足取りで砂の小径をぶらついていた。クリストフはそれに気を止めなかった。しかし道の曲がり角まで行くと、一人の男と顔をつき合わした。蒼《あお》ざめた眼をしてる脂《あぶら》ぎった若々しい顔の男で、二本のポプラの根本の腰掛にぐったりとすわって、前方をながめていた。も一人の男がそのそばにすわっていた。二人とも黙っていた。クリストフはそこを通り越した。しかし数歩行ってから立ち止まった。その男の眼に見覚えがあった。彼は振り返った。男は身動きもしないで、前方の一物をじっと見つめつづけていた。しかし連れの男はクリストフをながめていた。クリストフは手|真似《まね》をした。彼はやって来た。
「あれはどういう人ですか。」とクリストフは尋ねた。
「あの療養院の入院患者です。」と男は建物をさしながら言った。
「私はあの人を知ってるような気がしますが。」とクリストフは言った。
「そうかもしれません。」と男は言った。「ドイツでごく名高い作家ですから。」
 クリストフは名前を言ってみた。まさしくその名前だった。――クリストフは昔マンハイムの雑誌に筆を執っていたころ、彼に会ったことがあった。当時二人は敵だった。クリストフはほんの出たてだったし、向こうはすでに名高くなっていた。自信の強いしっかりした男で、自分以外のものはすべてを軽蔑《けいべつ》していて、一般の凡庸な作品を現実的な肉感的な芸術で風靡《ふうび》してる名高い小説家だった。彼を嫌《きら》っていたクリストフも、その唯物的な真摯《しんし》な偏狭な芸術の完璧《かんぺき》を嘆賞せざるを得なかった。
「一年前からああなったのです。」と付添人は言った。「療養して癒《なお》ったようでしたから、家に帰ることになりました。それからまた始まったのです。ある晩、窓から飛び降りてしまいました。ここへ来た当座は、あばれたり怒鳴ったりしていました。今はもうたいへんおとなしくなっています。ご覧のとおりじっとすわって日を送っています。」
「何を見てるんでしょう?」とクリストフは言った。
 彼は腰掛に近寄っていった。敗残者の蒼《あお》ざめた顔を、眼の上にたれ下がって一方はほとんどふさがってる太い眼瞼《まぶた》を、気の毒そうにうちながめた。狂人はそこにクリストフがいることも知らないらしかった。クリストフはその名前を呼びかけて、片手をとった――柔軟な湿っぽい手で、死物のようにぐったりしていた。彼はその手を両手に握っているだけの元気がなかった。狂人はちょっと彼のほうへ転倒した眼をあげたが、またぼんやりした微笑を浮かべながら前方をながめ始めた。クリストフは尋ねた。
「何を見てるのですか。」
 狂人はじっとしたまま低い声で言った。
「待ってるのだ。」
「何を?」
「復活[#「復活」に傍点]を。」
 クリストフはぞっとした。そしてあわただしく立ち去った。その言葉が火箭《かせん》のように彼を貫いたのだった。
 彼は森の中にはいり込み、自分の家の方へ坂を上っていった。心乱れていたので道に迷った。樅《もみ》の大きな森のまん中に出た。影と静寂とばかりだった。赤茶色の日光の斑《はん》点が少しばかり、どこからともなくさしてきて、濃い影の中に落ちていた。クリストフはそれらの光の延板から昏迷《こんめい》された。周囲はすっかり闇夜のようだった。脹《ふく》れ上がった血管のように突起してる木の根につまずきながら、樅の針葉の落ち敷いてる上を歩いていった。樹木の根元には一本の草も苔《こけ》もなかった。枝葉の中には一声の鳥のさえずりもなかった。下のほうの細枝は枯れていた。生命はことごとく日の当たる上のほうへ逃げていた。少し行くと、その生命さえも消滅していた。クリストフはある不可思議な害悪に侵されてる部分にはいった。蜘蛛《くも》の糸のような長い細かな地衣科の苔類が、赤い樅の枝を網で包み込み、それを頭から足までからげ上げ、木から木へ移っていって、森全体を窒息さしていた。陰険な触手をもってる海底の藻《も》に似ていた。そして太洋の深い底のような静寂がこめていた。上方には太陽が蒼ざめていた。枯死した森の隙間へ忍び込んできた霧が、四方からクリストフを取り巻いた。すべてが消え失せた。もう何物もなくなった。クリストフは三十分ばかりの間、白い靄《もや》の網の中を足に任せてさ迷うた。靄はしだいに濃く暗くなってきて、彼の喉《のど》へまではいってきた。彼はまっすぐに歩いてるつもりだったが、窒息した樅《もみ》からたれてる幾つもの大きな蜘蛛《くも》の巣の下を、ぐるぐる回ってるのだった。霧は蜘蛛の巣の間を通りながら、そこにうち震える雫《しずく》を残していった。ついに網の目が裂け、穴が一つ開いて、彼はその海中の森から出ることができた。彼はまた生きてる森に出会い、樅と※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》との黙々たる争闘を見た。しかしやはり同じ不動さだった。幾時間も前から醸《かも》されてる静寂がもだえていた。クリストフは立ち止まってその音を聞いた……。
 突然、津浪の寄せてくるような音が遠くに聞こえた。先駆者たる一陣の風が森の奥に起こっていた。疾駆する鳥のように、それは樹木の梢《こずえ》に吹きつけて波打たした。竜巻《たつまき》に包まれて通りゆくミケランジェロの神のようだった。それはクリストフの頭の上を通っていった。森とクリストフの心とは震えおののいた。それは告知者だった……。
 ふたたび静寂に帰した。クリストフはある聖なる恐怖にとらえられて、震える足で大急ぎに帰っていった。家の入り口で、あたかもだれかに追っかけられてるかのように、後ろを振り向いて不安な一|瞥《べつ》を投げた。自然は死んでるかのようだった。山の斜面を覆うている森は、重い憂愁に圧せられて眠っていた。じっと動かない空気は妙に澄み切っていた。なんの物音もしなかった。ただ急湍《きゅうたん》の悲しい音楽が――岩を浸触《しんしょく》してる水が――大地の喪鐘を鳴らしていた。クリストフは熱が出て寝床にはいった。隣の小屋では、彼と同じように不安を覚えてる家畜が動き回っていた……。
 夜になった。彼はうとうとした。静寂の中に、遠い津浪の音がふたたび起こった。風はこんどは颶風《ぐふう》となって吹いてきた――まだ眠ってる寒がりの大地を熱い息で温める春の南風、氷を融《と》かして豊かな雨を集めてる南風。それが谷の彼方の森の中に宵のように吼《ほ》え立てた。そして近づいて来、脹《ふく》れ上がり、山の斜面を襲い上った。山全体が唸《うな》り出した。小屋の中では、一匹の馬がいななき多くの牛が鳴いた。クリストフは寝床に身を起こし髪を逆立てて聴《き》き入った。颶風が吹き来たって、わめきたち、風見《かざみ》を軋《きし》らせ、屋根の瓦《かわら》を飛ばし、家を震わした。花瓶《かびん》が一つ落ちてこわれた。クリストフの室の締まりの悪い窓は音をたてて開いた。熱い風が吹き込んだ。クリストフはそれを顔の真正面と露《あら》わな胸とに受けた。咽《む》せ返って口を開きながら寝床から飛び出した。あたかも彼の空しい魂の中に生ける神が飛び込んできたかのようだった。復活[#「復活」に傍点]!……空気は彼の喉の中へ吹き込み、新生の波は臓腑《はらわた》の底まではいり込んだ。彼は破裂する心地がし、叫びたくなり、苦悶と歓喜との声をあげたくなった。が口からは不|明瞭《めいりょう》な声が少し出たばかりだった。彼は颶風に舞いたってる紙片の中で、よろよろと歩き回り、両腕で壁をなぐりつけた。そして室のまん中に打ち倒れながら叫んだ。
「おう、汝《なんじ》、汝! 汝はついにもどってきた!」

「汝はもどってきた、汝はもどってきた! おう、わが失っていた汝……なにゆえに汝はわれを見捨てたのか。」
「汝が捨てた予の仕事をやり遂げんがためにだ。」
「なんの仕事であるか。」
「戦うことだ。」
「なんで戦う必要があるのか。汝《なんじ》は万事の主宰者ではないか。」
「予は主宰者ではない。」
「汝は存在するすべて[#「存在するすべて」に傍点]ではないか。」
「予は存在するすべてではない。予は虚無[#「虚無」に傍点]と戦う生[#「生」に傍点]である。予は虚無[#「虚無」に傍点]ではない。予は闇夜[#「闇夜」に傍点]のうちに燃える火[#「火」に傍点]である。予は闇夜[#「闇夜」に傍点]ではない。予は永遠の戦い[#「戦い」に傍点]である。そしてなんら永遠の宿命も戦いの上に臨んではいない。予は永遠に闘争する自由なる意志[#「意志」に傍点]である。汝も予とともに戦い燃えるがよい。」
「われは打ち負かされている、われはもはやなんの役にもたたない。」
「汝は打ち負かされたというか。万事終わったと思うか。それでは他の人々が勝利者となるであろう。汝自身のことを考えずに、汝の軍隊のことを考えてみよ。」
「われは一人きりである。われ自身よりほかにだれもいない。われには軍隊はない。」
「汝は一人きりではない。そして汝は汝自身のものでもない。汝は予が声の一つであり、予が腕の一つである。予のために語りまた打てよ。たといその腕が折れようとも、その声がくじけようとも、予自身はなおつっ立っている。予は汝より他の声と他の腕とをもって戦うのだ。汝はよし打ち負けるとも、けっして負けることのない軍隊に属しているのだ。それを覚えておくがよい。さすれば汝は死んでもなお打ち勝つであろう。」
「主《しゅ》よ、われはこんなに苦しんでいる!」
「予もまた苦しんでいると汝《なんじ》は思わないか。幾世紀となく、死は予を追跡し、虚無は予をねらっている。予はただ勝利によって己が道を開いているのだ。生の河流は予が血で真赤《まっか》になっている。」
「戦うのか、常に戦うのか。」
「常に戦わなければならないのだ。神といえども戦っている。神は征服者である。呑噬《どんぜい》の獅子《しし》である。ひしひしと寄せてくる虚無を打倒している。そして戦いの律動《リズム》こそ最上の諧調《かいちょう》である。この諧調は命数に限りある汝の耳には聞き取れない。汝はただ
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