てる戦いに気づいたのだった。そして彼の心は憐憫《れんびん》と嫌悪《けんお》とに満たされた。彼は幸福だったときでさえも、常に動物を愛していた。動物にたいする残虐を忍び得なかった。狩猟にたいして嫌忌の念を覚えた。人に笑われはすまいかと思って、それをあえて口には出さなかったし、またおそらく自分自身でも、はっきり是認し得なかったかもしれない。しかしその嫌悪の念こそ、彼がある種の人々にたいしていだいてる反感の、ひそかな原因だったのである。娯楽のために動物を殺すような者を、彼はかつて友として受けいれ得なかったであろう。それは少しも感傷性ではなかった。人生は苦悶《くもん》と残忍との無限な総和の上に立ってることを、彼はだれよりもよく知っていた。人は他を苦しめずには生きてゆけない。眼をつぶったり言葉でごまかしたりすべきではない。人生を捨つべきだと結論したり子供のようにめそめそ泣いたりすべきではない。否、当分他に生きる方法がないとするならば、生きんがためには殺してさしつかえない。しかしながら、殺さんがために殺す者は悪人である。無意識的ではあるが、でも悪人たるに変わりはない。人間の不断の努力は、苦しみと残虐との総和を減ぜんとすることにあらねばならぬ。それが人間の第一の務めである。
そういう考えが、平素はクリストフの心の底に埋もれていた。彼はそのことを考えようとはしなかった。なんの役にたつものか? 自分に何ができるものか? 彼に必要なのは、クリストフたることであり、自分の仕事を完成することであり、いかにしても生きることであり、弱者を犠牲にしても生きることであった……。彼みずから世界を作ったのではなかった……。そんなことは考えないがいい、考えないがいい……。
けれども、不幸のために彼もまた敗者のうちに投げ込まれてからは、それを考えざるを得なかった。以前オリヴィエが、無益な悔恨に沈み込み、人間が受けたり与えたりしてる不幸にたいして、いたずらな憐憫《れんびん》に沈み込んでいるのを、彼はとがめたことがあった。ところが今では、彼はオリヴィエ以上になっていった。強い性質に駆られて、世界の悲劇の奥底へまではいり込んだ。世の中のあらゆる苦悩を苦しみ、あたかも皮膚を剥《は》がれたようになっていた。動物のことを考えると、苦悶の戦慄《せんりつ》を覚えざるを得なかった。自分と同じような魂を、口をきくことのできない魂を、獣の眼の中に読み取った。その眼は魂の代わりに叫んでいた。
「私はあなたに何をしましたか? なにゆえにあなたは私を害するのですか?」
幾度も見|馴《な》れたもっともありふれた光景にも、彼はもう堪え得なかった。――荒い格子《こうし》の檻《おり》に閉じこめられて嘆いてる仔牛《こうし》、青っぽい白目をしてる飛び出した大きい黒い眼、薄赤い眼瞼《まぶた》、白い睫毛《まつげ》、額に縮れてる白い尨毛《むくげ》、紫色の鼻、X形の足、――百姓のもって行く仔羊が、いっしょに縛られた四足でぶら下げられ、頭を下にたれながら、起き直ろうとつとめ、子供のように泣きたてて、灰色の舌を差し出してるさま、――籠《かご》にいっぱいつめ込まれてる牝鶏《めんどり》、――遠くには、屠殺《とさつ》されてる豚の鳴き声、――料理場のまな板の上には、臓腑《ぞうふ》を抜き取られてる魚、……クリストフはもうそれらの光景に堪え得なかった。それらの罪なき生物に人間が与えてる名目のない苦しみは、彼の心をしめつけた。動物に理性の光が少しあるものと見なしてもみよ。動物にとっては世界がいかに恐ろしい幻であるかを想像してもみよ。冷淡無情で盲目で聾である人間らは、動物を締め殺し、その腹を割《さ》き、筒切りにし、生きながら煮、苦痛にもがくさまを見ては面白がっている。アフリカの食人種のうちにも、これ以上|獰猛《どうもう》な行為があるだろうか? 動物の苦しみには、自由な良心の者にとっては、人間の苦しみよりもいっそう許容しがたいものがある。なぜなら、少なくとも人間の苦しみは、一つの悪であることが是認されてるし、それを引き起こすものは罪人であると是認されている。しかし無数の動物は、一片の悔恨の影もなしに、毎日いたずらに屠《ほふ》られている。それを口にする者は物笑いとなるだろう。――そしてこのことこそ、許すべからざる罪悪である。この罪悪だけでも、人間は苦しむのが道理だということになる。この罪悪は人類に返報を求めている。もし神が存在していてこの罪悪を寛容するとすれば、この罪悪は神に返報を求めるだろう。もし善良な神が存在するならば、生ける魂のうちのもっとも卑賤《ひせん》なものも救われなければならない。もしも神は最強者にとってしか善良でないとするならば、そして、惨《みじ》めなるものにとっては、人間の犠牲に供えられてる下等のものにとっては、正理がないとするならば、善良というものは存在しないことになり、正理というものは存在しないことになる……。
ああ、人間の行なう殺戮《さつりく》そのものも、世界の殺戮の中においてはわずかなものである。動物はたがいに食い合っている。穏やかな植物も、無言の樹木も、たがいに猛獣のごとき関係をもっている。森林の静穏さ、書物を通してしか自然を知らない文学者にとっては、たやすく美辞麗句の材料となる普通の場所……しかも、クリストフの家から数歩の所にある近くの森の中にも、恐るべき争闘が行なわれていた。殺害者の※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》は、美しい薔薇《ばら》色の身体をした樅《もみ》に飛びかかり、古代円柱のようにすらりとしたその胴体にからみついて、それを窒息さしていた。※[#「木+無」、第3水準1−86−12]はまた樫《かし》の上にも飛びついて、それを打ち砕き、それを自分の松葉杖としていた。百本の腕をもってるブリアレウスのような※[#「木+無」、第3水準1−86−12]、一株から十本もの幹が出ていた。周囲のものをことごとく枯死さしていた。そして敵がなくなると、たがいにぶつかり合い、猛然とからみ合い、裂き合い、膠着《こうちゃく》し合い、ねじ合って、大|洪水《こうずい》以前の怪物のようであった。森の下部のほうでは、アカシアが周辺から内部へ生え込んでいって、樅林を攻撃し、敵の根を締めつけかきむしり、分泌物でそれを毒殺していた。それこそ必死の争闘であって、勝利者は敗者の場所と遺骸とをともに奪い取っていた。するとこんどは小さな怪物が、大怪物のその事業を最後までやり遂げていた。根の間から生え出た茸《きのこ》が、病衰した樹木の汁を吸って、それをしだいに空洞《くうどう》になしていた。黒|蟻《あり》が朽木を砕いていた。眼に見えない無数の虫が、生ありしものを噛《か》み穿《うが》って、塵埃《じんあい》に帰せしめていた……。しかもそれらの戦いの静寂さ!……おう、自然の平和よ、生[#「生」に傍点]の痛ましい残忍な面貌《めんぼう》を覆《おお》ってる悲しい仮面よ!
クリストフはまっすぐに沈んでいった。しかし彼は腕を拱《こまね》いて争いもせず溺《おぼ》れてゆく人間ではなかった。いかに死にたがってたとは言え、生きんがためにできるだけのことをしていた。彼はモーツァルトが言ったように、「もはやなすべき手段が尽きるまでは活動せんとする[#「もはやなすべき手段が尽きるまでは活動せんとする」に傍点]」人物の一人だった。彼は今にも消え失せてゆくような心地がした。そして底へ沈み込みながらも、左右に腕を動かして取りすがるべき支《ささ》えを捜し求めた。彼はそれを見出したと思った。オリヴィエの子供のことを思い出したのだった。すぐに彼は自分の生きる意志をことごとくその子供の上に投げかけた。それにしっかとすがりついた。そうだ、その子供を捜し出し、自分のもとに引き取り、育て上げ、愛してやり、父親の代わりをつとめ、オリヴィエをその子のうちに生き返らせてやるべきだった。利己的な苦悩の中にあって、どうして今までその考えを起こさなかったのだろう? 彼は子供を保護してるセシルへ手紙を書いた。そして返事を待ち焦がれた。彼の全存在はその唯一の考えのほうへ向けられた。彼は強《し》いて落ち着こうとした。希望をかけ得る理由が残っていた。彼は大丈夫だと思っていた。セシルの温情をよく知っていた。
返事が来た。セシルの言うところによると、オリヴィエの死後三か月たって、喪服をつけた一人の婦人が彼女のところへ来て、彼女に言った。
「私の子供を返してください!」
それは、前に子供とオリヴィエとを見捨てた女――ジャックリーヌだった。しかしそれと認めがたいほど変わりはてていた。彼女の狂気じみた恋愛は長つづきしなかった。情夫が彼女に倦《あ》きるよりももっと早く、彼女のほうで情夫に倦きはてた。彼女は心くじけ嫌気《いやけ》がさし老い衰えてもどってきた。彼女の情事のあまりに騒々しい醜聞のために、多くの家は戸を開いてくれなかった。もっとも物事を気にかけない人々でもやはり厳格だった。母親でさえもジャックリーヌにたいしては、家にとどまっておれないほど侮辱的な軽蔑《けいべつ》の様子を見せつけた。ジャックリーヌは世間の偽善を底まで見通した。そしてオリヴィエの死によってすっかり圧倒されてしまった。彼女があまりに痛ましげなふうをしていたので、セシルは彼女の要求を拒み得ない気がした。自分のものとして見|馴《な》れていた子供を人に与えるのは、いかにも辛《つら》いことだった。けれども、自分より多くの権利をもち自分よりいっそう不幸である者にたいして、どうしてなお酷薄であられようぞ。彼女はクリストフに手紙を書いて相談しようとした。しかしクリストフは今まで彼女の何度もの手紙にかつて返事をくれたことがなかった。彼女は彼の住所を知らなかったし、彼が生きてるか死んでるかさえも知らなかった……。喜びは来たかと思うと去ってゆく。どうにもしようはない。あきらめるばかりだ。肝要なのは子供が幸福になり愛されるということだった……。
その手紙は晩に着いた。ぐずついてる冬がまたもどってきて雪をもたらしていた。夜通し雪が降った。すでに若葉が出だしてる森の中では、樹木が雪の重みに音をたてて折れていた。あたかも砲戦のようであった。クリストフは燈火もつけずに、燐光《りんこう》性の闇《やみ》の中に、ただ一人室にいて、悲痛な森の音に耳を傾け、木の折れる響きのすることにびくりとした。そして彼自身も、重荷の下に撓《たわ》んで音をたてる樹木に似ていた。彼はみずから言った。
「今や万事終わった。」
夜が過ぎてまた昼となった。この樹木は折れてはしなかった。その新たな一日、それにつづく一夜、それからあとの幾昼夜、この樹木は撓んで音をたてつづけた。しかし折れくじけはしなかった。彼はもうなんら生きる理由をもってはいなかった。しかもなお生きていた。もうなんら闘争の趣旨をもってはいなかった。しかもなお、背骨を折りくじこうとする眼に見えぬ敵と、取っ組み合って争っていた。天使と闘うヤコブに似ていた。彼はその争闘からもう何にも期待してはいなかった。ただ終局をのみ期待していた。そしてなお争闘しつづけた。そしてこう叫んでいた。
「さあ俺《おれ》を打ち倒せ! なぜ俺を打ち倒さないのか?」
日々が過ぎていった。クリストフは戦いから脱して、まったくもぬけの殻《から》となっていた。それでも彼はなおつっ立っていて、出かけて歩き回った。生気の欠けてるおりに強健な種族から支持される人々は幸いである。父や祖先の足が、将《まさ》に崩壊せんとしてるこの息子《むすこ》の身体をささえていた。頑健《がんけん》な父祖の支力が、あたかも馬が騎士の死体を運ぶように、くじけたこの魂を支持していた。
彼は両方に谷を控えた頂上の道を歩いていった。萎縮《いしゅく》した小さな樫《かし》の節くれだった根が匐《は》い回ってる、石のとがった狭い小径《こみち》を降りていった。どこへ行くのかも知らなかった。しかも明瞭《めいりょう》な意志に導かれてるものよりもいっそう確かな歩調だった。彼は眠っていなかった。数
前へ
次へ
全37ページ中34ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング