黙々たる激昂《げっこう》の悪戦苦闘だった。主の非難に彼女はさいなまれていた。彼女はそれが聞こえないふうをしていた。しかし聞かざるを得なかった[#「ざるを得なかった」に傍点]。そして彼女は口をくいしばり、強情な皺《しわ》を額に寄せ、きびしい眼つきをして、神と激論していた。クリストフのことを考えると憎くなった。魂の牢獄《ろうごく》から自分を一時引き出しておいて、ふたたび牢獄の中に陥らして獄卒の手に委《ゆだ》ねたことを、彼女は彼に許せなかった。彼女はもう眠れなかった。昼となく夜となく、同じ苦しい考えを繰り返した。しかし愚痴をこぼしはしなかった。やはり家の中の万事をつかさどって、頑固《がんこ》に自分の務めを果たしてゆき、自分の意志の執拗《しつよう》強情な性質を日常生活のうちに最後まで保ちつづけて、機械のように規則正しく仕事を片付けた。身体は痩《や》せ細ってきて、内部の疾患に侵されてるかのようだった。ブラウンは親切に気をもんで容態を尋ねた。聴診までもしたがった。が彼女はそれを荒々しくしりぞけた。彼にたいして心の苛責《かしゃく》を感ずれば感ずるほど、ますます彼に冷酷な態度をした。
 クリストフはもうふたたびもどるまいと決心していた。彼は疲労でおのれをくじこうとした。方々へ行き、苦しい運動をし、舟を漕《こ》ぎ、歩行し、山に登った。が何物も情火を消すにいたらなかった。
 彼は情熱の手中にあった。それは天才の性質の必然性である。もっとも貞節な人々、ベートーヴェンやブルックナーでさえ、たえず愛せざるを得ないのである。あらゆる人間的な力が天才のうちでは高調されている。そしてそれらの力は想像力によって招来されてるので、彼らの頭脳はいつも情熱にとらえられる。たいていは一時の炎にすぎなくて、たがいに滅ぼし合い、またどれも皆、創造的精神の大火にのみ込まれる。しかし鍛冶《かじ》の熱が魂を満たさなくなるときには、無防禦な魂は、なくて済ませないそれらの情熱に委ねられる。魂は情熱を欲し情熱を創《つく》りだす。情熱のために全身を呑噬《どんぜい》されなければやまない。――その上にまた、肉体を侵す酷烈な欲望のほかに、人生に疲れ欺かれた人を慰安者の母性的な腕のほうへ推し進める、情愛の欲求がある。偉人はだれよりもいっそう子供である。一人の女に信頼し、やさしい手のひらの上に、その両|膝《ひざ》の間の長衣の凹《くぼ》みに、自分の額を休めたいとの欲求を、だれよりもいっそう持ってるものである……。
 しかしクリストフはそんなことを理解していなかった……。情熱の宿命を――浪漫主義作家の戯言《ざれごと》を、彼は信じていなかった。戦うべき義務と力とを信じていた。自分の意志の力を信じていた……。しかも彼の意志は、それはどこにあったか? その痕跡《こんせき》さえ残ってはいなかった。彼は取り憑《つ》かれていた。思い出の針に昼も夜も悩まされた。アンナの身体の匂《にお》いが口や鼻を焦がしていた。彼はあたかも、舵《かじ》を失い風に任された重々しい破船に似ていた。いたずらに逃げようとして骨折った。しかしやはり同じ場所に引きもどされた。そしては風に向かって叫んだ。
「俺《おれ》を吹き砕け! 俺をどうするつもりなのか?」
 なんで、なんであの女を……なんであの女を愛してるのか? 彼女の心と精神との特長のためにか? だがもっと聡明《そうめい》なりっぱな女が乏しくはなかった。またそれは彼女の肉体のためにか? だが彼はもっと自分の官能を喜ばす情婦を他に所有したことがあった。それではいったい何が彼をとらえていたのか?――「人は愛するがゆえに愛す」――そこにこそ、普通の理由を過ぎ越えた一つの理由がある。狂気の沙汰《さた》というか? それはなんらの意味をもなさない。その狂気沙汰はなにゆえであるか?
 それは、人がおのれのうちに閉じこめてる、一つの隠れたる魂が、もろもろの盲目な力が、悪魔が、存するからである。人間が存在して以来人間の全努力は、その内心の海洋にたいして、理性と宗教との堤防を築くことに向けられてきた。しかしながら暴風雨が襲来し(そしてもっとも豊富な魂はもっとも暴風雨を受けやすい)、堤防は破壊され、悪魔は自由の身となり、同様な悪魔から煽《あお》り立てられてる他の魂と相面して立つ……。それらがたがいに飛びついてつかみ合う。憎か? 愛か? 相互破壊の狂乱か?――情熱、それこそ獰猛《どうもう》な魂である。

 逃げ出そうと無駄《むだ》な努力を二週間つづけたあとに、クリストフはアンナの家にもどって来た。もはや彼女と離れて生きることができなかった。息がつけなかった。
 それでも、彼はなお闘《たたか》いつづけた。彼がもどって来た晩、二人は口実を設けて顔を合わせもせず、食事もいっしょにしなかった。夜になると、どちらも自分の室の中に、おずおずと鍵《かぎ》をかけて閉じこもった。――しかしなんとしても力及ばなかった。夜中に、彼女は素足のまま逃げ出してきて、彼の室の扉《とびら》をたたいた。彼は扉を開いた。彼女は寝床の中にはいってきた。彼のそばに冷たくなって横たわった。声低く泣き出した。彼はその涙が自分の頬の上に流れるのを感じた。彼女は気を静めようとつとめた。しかし苦悩に打ち負けた。クリストフの首に唇《くちびる》を押しあててすすり泣いた。その苦悶《くもん》に惑乱されて彼は自分の苦悶を忘れた。やさしい慰めの言葉をかけて彼女を落ち着かせようとした。彼女は嘆いた。
「私は悲しい。死んでいたほうがよかった……。」
 彼女の訴えは彼の心をつき刺した。彼は彼女を抱擁しようとした。彼女はそれを押しのけた。
「私はあなたが嫌《きら》いです!……なぜあなたはいらしたんです?」
 彼女は彼の腕から脱して、寝台の向こう側に身を投げ出した。寝台は狭かった。二人はたがいに避けようとしたが、やはり触れ合った。彼女は彼のほうへ背中を向けて、怒りと悩みに震えていた。死ぬほど彼を憎んでいた。彼は圧倒されて黙っていた。沈黙のうちに、彼女は彼の押え止めてる息を聞きとった。彼女はにわかに向き返って、彼の首を両腕で抱いた。
「ああクリストフ!」と彼女は言った、「私あなたを苦しまして……。」
 初めて彼は、彼女からそういう憐《あわ》れみの声を聞いたのだった。
「許してください。」と彼女は言った。
 彼は言った。
「おたがいに許し合いましょう。」
 彼女はもう息がつけないかのように身を起こした。寝床の中にすわり、がっかりして背をかがめて、彼女は言った。
「私はもう駄目《だめ》……それが神の心だから。私は神に見捨てられたのです……。神に反対して私に何ができましょう?」
 彼女は長くそのままでいた。それからまた横になって、もう少しも動かなかった。仄《ほの》かな明るみが黎明《れいめい》を告げた。薄ら明かりの中に、彼は自分の顔に接してる痛ましい顔を見てとった。
 彼はささやいた。
「夜が明けた。」
 彼女は身動きもしなかった。
 彼は言った。
「よろしい、構やしない。」
 彼女は眼を開き、たまらなく懶《ものう》い表情で床から出た。寝台の縁に腰かけて、床《ゆか》板をながめた。
 何の色合いもない声で言った。
「私昨夜あの人を殺そうかと思った。」
 彼は恐ろしさに飛び上がった。
「アンナ!」と彼は言った。
 彼女は陰鬱《いんうつ》な様子で窓を見つめた。
「アンナ!」と彼は繰り返した。「とんでもないことを! 殺すのはあの人をではない!……あの人はいい人です……。」
 彼女も繰り返した。
「あの人をではない。そうです。」
 二人はたがいに見合った。
 ずっと前から二人はそのことを知っていた。何が唯一の出口であるかを知っていた。虚偽のうちに生きるのが堪えがたかった。そしていっしょに逃げ出すことはできそうになかった。それがなんの解決にもならないことを知らないではなかった。なぜなら、もっともひどい悩みは、二人を隔ててる外部の障害にあるのではなくて、彼らのうちに、彼らの異なった魂のうちにあるのだった。二人は別々に生きることができないと同様に、いっしょに生きることもできなかった。二人は行きづまっていた。
 そのとき以来、二人はもう接し合わなかった。死の影が二人の上にさしていた。二人はたがいに犯しがたいものだった。
 しかし二人は期日を定めることを避けた。「明日、明日……」と言っていた。そしてその明日から眼をそらしていた。クリストフの強い魂はしきりに反発を覚えた。彼は敗北を承知しなかった。彼は自殺を軽蔑《けいべつ》していて、偉大な生命に憐《あわ》れな短縮的な結末を与えることを、どうもあきらめかねた。アンナのほうは、永遠の死滅へ至る一つの死という観念を、どうして自発的に受けいれ得たろうか? しかし死へ至るべき必然の事情が二人を追窮していた。二人の周囲の世界はしだいに狭まってきた。

 ある朝、クリストフは裏切りの行ないをして以来初めて、ブラウンと二人きりになった。それまで彼はうまくブラウンを避けていた。ブラウンと出会うことは堪えがたかったのである。彼はむりにある口実を設けて握手しなかった。食卓で彼のそばにすわりながら、むりにある口実を設けて食べなかった。食物が喉《のど》に通らなかった。彼の手に握手し、彼のパンを食べ、ユダの接吻《せっぷん》を与えるとは!……そしてもっともたまらないことは、自分自身にたいする軽蔑《けいべつ》の念ではなくて、もしブラウンが知ったらどんなに苦しむだろうかという心痛だった……。その考えが彼を悶《もだ》えさした。憐れなブラウンはけっして復讐《ふくしゅう》もしないだろうし、おそらく二人を憎むだけの力もないだろう、と彼はよく知りつくしていた。ブラウンはいかに心がくじけることだろう!……どんな眼でクリストフをながめるだろうか! クリストフはその眼の非難に立ち向かい得ない気がした。――そして、おそかれ早かれブラウンは知るにきまっていた。すでにもう何かを疑ってはいなかったろうか。クリストフは二週間の不在のあとにふたたび会ってみて、彼の様子の変わったのに心を打たれた。もうそれは同じブラウンではなかった。その快活は消えてしまっていた、もしくはどこかわざとらしい点があった。食卓では、口もきかず物も食べずランプのように燃えつきかけてるアンナのほうを、じろじろぬすみ見ていた。そして気おくれのした痛々しい親切さで、なんとか彼女の世話をやこうとした。彼女はそれらの注意を手ひどくしりぞけた。すると彼は皿の上に顔を伏せて黙った。食事の最中に、アンナは息苦しくなって、ナプキンを食卓の上に放り出して出て行った。あとに残った二人は、黙々として食事を済ました。もしくは済ましたふうを装った。二人は眼もあげかねた。食事が済むと、クリストフは出て行こうとした。ブラウンはその腕をふいに両手でとらえた。
「クリストフ!……」と彼は言った。
 クリストフは心乱れて彼をながめた。
「クリストフ、」とブラウンは繰り返した――(その声は震えていた)――「彼女がどうしたのか君は知ってやしないか。」
 クリストフは刺し通されたような心地がした。しばし返辞が出なかった。ブラウンはおずおずと彼をながめていた。そして急に詫《わ》びを言った。
「君もよく見かけるとおり、彼女は君に何かと打ち明けてるものだから……。」
 クリストフはブラウンの両手に唇《くちびる》をあてて許しを求めようとしかかった。しかしブラウンはクリストフの転倒した顔色を見、ぞっとして、すぐにもう知りたくなくなった。眼つきで懇願しながら、急いで早口に言いすてた。
「いや、そうじゃない、君は何にも知らないんだね。」
 クリストフは心くじけて言った。
「知らない。」
 おう、辱《はずかし》められた相手に断腸の思いをさせる事柄だからといって、自責し卑下することのできないその苦しさ! 尋ねかけてくる相手の眼の中に、心進まぬことを、真実を知りたがっていないことを、読みとるときに、真実を言うことのできないその苦しさ!……
「そうだ、そうだ、ありがとう、ほんとにありがとう……。」と
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