の鍵《かぎ》を握っている。そしてただ、平凡に整えられた戸棚《とだな》を少し見せてくれるのみである。しかし音楽は魔法の小枝をもっていて、いかなる錠前をも払い落とす。扉は開く。心の悪魔が現われる。そして魂は、初めて真裸な自分の姿を見る……。魔の人魚が歌ってる間は、獣使いが野獣どもを監視している。大音楽家の強力な理性が、おのれの解き放す情熱を魅惑している。しかし音楽が沈黙するとき、獣使いがもはやいなくなるとき、呼び覚まされた情熱は、その檻《おり》を揺すって唸《うな》りつづけ、おのれの餌食《えじき》を捜し求める……。

 旋律《メロディー》は終わった。沈黙……。彼女は歌いながらクリストフの肩に手をのせていた。二人はもう身動きもなしかねた。そして二人とも震えていた……。突然――一瞬のことだった――彼女は彼のほうへ身をかがめ、彼は彼女のほうへのび上がり、二人の口は合わさった。彼女の息は彼のうちにはいった……。
 彼女は彼を押しのけて逃げた。彼は暗闇のなかにじっと動かなかった。ブラウンが帰ってきた。彼らは食卓についた。クリストフは考えてみることもできなかった。アンナは心が他処《よそ》に行ってるようだった。「他処」をながめていた。食後間もなく居間へ退いた。クリストフもブラウンと二人で残っておれないで、自分の室へ退いた。
 十二時ごろ、医者のブラウンはもう寝ていたが、ある病人に呼びつけられた。クリストフは彼が階段を降りて外出するのを聞いた。五、六時間前から雪が降り出していた。人家も街路も雪に埋もれていた。空気は綿をつめ込まれてるかのようだった。戸外には足音も馬車の音もしなかった。町じゅうが死んでるかのようだった。クリストフは眠れなかった。ある恐怖を感じて、それが刻々に募ってきた。身動きすることもできなかった。寝床の中に仰向けに釘《くぎ》付けになって、眼を見開いていた。白雪に覆《おお》われた地面や屋根から発する金属性の明るみが、室の壁には漂っていた……。あるかすかな物音に、彼はぞっと震え上がった。彼の昂《たか》ぶった耳なればこそそれを聞きとったのである。廊下の板にごくかすかに物の擦《す》れる音だった。クリストフは床の中に身を起こした。軽い音は近寄ってきて止まった。一枚の板が軋《きし》った。扉《とびら》の向こうに人がいた。そして待ってるのだった……。数秒の間、おそらく数分の間、まったくじっとして動かなかった……。クリストフはもう息もつけなかった。びっしょり汗をかいた。戸外では雪片が、翼のように窓ガラスを掠《かす》めていた。ある手が扉《とびら》を探りあてた。扉は開いた。そして入り口に白い姿が現われて、そっと進んできた。寝台から数歩のところで立ち止まった。クリストフの眼には何にもわからなかった。しかし彼は彼女の息を聞きとった。そして自分の心臓の動悸《どうき》も聞こえた……。彼女は寝台のそばへ来てまた立ち止まった。二人の顔はすぐそばに接していて、息が交じり合った。二人の眼は暗闇の中で相手がわからずに、たがいに捜し合った……。彼女は彼の上に倒れかかった。そして二人は一言も発せずに、沈黙のうちにひしと抱き合った……。

 一時間、二時間、一世紀もたった。家の戸が開いた。アンナは二人を結びつけてる抱擁から身を脱し、寝床からすべりぬけ、来たときと同様に一言もいわずに、クリストフのもとを去った。彼女の素足が床板《ゆかいた》を小早く掠めて遠ざかってゆくのを、彼は耳にした。彼女は自分の室にもどった。ブラウンが帰ってきてみると、彼女は寝床にねていて、眠ってるようだった。そして彼女はそのままの姿で、眠りついたブラウンのそばで、狭苦しい寝床に、眼を見開き息を凝《こ》らしながら、夜通しじっとしていた。もうこれまでに彼女は、そういうふうにして幾夜過ごしたことだったろう!
 クリストフも眠りはしなかった。彼は絶望に沈んでいた。彼は元来、恋愛の事柄については、ことに結婚の事柄については、極端に厳粛な考えをいだいていた。姦淫《かんいん》を興味の中心とするような芸術作家の軽佻《けいちょう》さを、憎みきらっていた。姦淫は彼に嫌忌《けんき》の情を起こさせるのだった。その気持のうちには、彼の平民的な粗暴さと精神の高潔さとが結び合わされていた。彼は他人の所有である婦人にたいしては、敬虔《けいけん》な尊敬と肉体的な厭気《いやけ》とをいっしょに感じた。ヨーロッパのある上流人らが行なってる犬のような混合生活は、彼の胸を悪くさした。夫が承知してる姦淫は、不潔きわまるものである。夫が知らずにいる姦淫は、主人を裏切り汚すために身を潜める放逸な下僕がするような、卑しむべき欺瞞《ぎまん》である。幾度か彼は、そういう卑劣を犯してる人々を見ると、容赦なく唾棄《だき》してきたことだろう! そういう不名誉な行ないを彼の面前でやってる友人らとは、交わりを絶ってしまったのだった……。しかるに今や彼のほうで、同じ汚辱によって身を汚したのである! そしてその罪悪の事情は彼をなお忌むべきものとなしていた。彼はこの家へ、病み疲れた惨《みじ》めな状態でやって来たのだった。そして友人から迎えられ、助けられ、慰められた。友の親切は終始一貫していて、少しも薄らいだことがなかった。彼は今でもなお友のおかげで日を過ごしていた。しかもその恩返しに、名誉と幸福とを、家庭のつつましい幸福を、友から盗んでしまったのである。卑劣にも友を裏切ったのである。それもだれといっしょにか? 自分が見知りもせず、理解しもせず、愛してもいない女といっしょに……。愛してもいない、というのか? 否、彼の全身の血はそれに反対していきり立った。彼女のことを思うや否や、彼は火の激流のために焼きつくされた。そしてそれを言い現わすためには、恋愛というもあまりに弱い言葉だった。それは恋愛ではなかった。しかも恋愛より千百倍以上のものだった……。彼はその夜を暴風雨の心地で過ごした。起き上がって、冷水の中に顔を浸し、息もつけずに打ち震えた。その懊悩《おうのう》のはては熱の発作となった。
 打ちくじかれた心地で起き上がったとき彼は、彼女がいかに自分よりも多く恥ずかしさに圧倒されてるだろうかと考えた。彼は窓のところへ行った。太陽がぎらぎらした雪の上を照らしていた。庭には、アンナが一本の綱に下着類を広げていた。彼女は仕事のほうに注意をこらして、何物にも心を乱されていないらしかった。歩行にも身振りにもある品格があって、それが彼にはまったく眼新しく、なんだか彫像の動作をでも見てるような気がした。

 午《ひる》の食事のときに、二人は顔を合わした。ブラウンは終日不在だった。クリストフはとうてい彼と会うに堪え得なかったであろう。彼はアンナに話しかけたかった。しかし二人きりではなかった。女中が行ったり来たりしていた。二人は用心しなければならなかった。クリストフはアンナの眼をとらえようとしたが駄目だった。彼女は彼をながめてはいなかった。心乱れた様子は少しもなかった。そしてわずかな動作のうちにもやはり、いつもに似合わぬ確実さと上品さとがこもっていた。食事のあとに彼はもう話し合えることと思った。しかし女中はなお居残って、後片付けにぐずついていた。二人が隣室に移っても、女中はそのあとをつけて来るような振る舞いをした。始終何かを取りに来たりした。アンナが急いで閉めようとしない半開の扉《とびら》のそばで、廊下に立ってこそこそやっていた。あたかも二人の様子を窺《うかが》ってるかのようだった。アンナはいつまでも終わらない仕事をかかえて、窓のそばに腰をおろした。クリストフは書物を開いて、明るみのほうへ背を向けて肱掛椅子《ひじかけいす》にすわり込んだが、別に読むでもなかった。アンナは彼の横顔を見得る位置にあって、壁のほうを向いてる彼の苦しんだ顔つきを、一目で見てとった。そして残忍な様子で微笑を浮かべた。家の屋根から、また庭の樹木から、雪融《ゆきど》けの水が砂の上にしたたって、ささやかな音をたてていた。遠くには、街路で雪合戦をしてる子供たちの笑い声がしていた。アンナはうとうとしてるかのようだった。クリストフは沈黙に悩まされた。苦しさに叫び出したいほどだった。
 ついに、女中は下の階に降りていって、外に出かけた。クリストフは立ち上がり、アンナのほうへ向き返った。そしてこう言おうとした。
「アンナ、アンナ、私たちはどうしたんでしょう?」
 アンナは彼をながめていた。執拗《しつよう》に伏せられていた彼女の眼は、また見開かれて、クリストフの上に焼きつくすような炎を注いだ。クリストフはその打撃を眼の中に受けてよろめいた。彼の言おうとすることはすべて一挙に打ち消された。二人はたがいに進み寄って、ふたたび抱きしめた……。

 宵闇《よいやみ》が広がっていた。二人の血はなお唸《うな》っていた。彼女は寝床の上に横たわって、上衣をはねのけ、両腕を広げ、体を覆《おお》おうとの様子さえしなかった。彼は枕《まくら》に顔を埋めて呻《うめ》いていた。彼女は彼のほうへ身を起こし、彼の顔をあげさして、その眼や口を指先で撫《な》でさすった。自分の顔をさし寄せて、彼の眼の中をじっとのぞき込んだ。その彼女の眼は、湖水のように深々としていて、苦悶《くもん》をそちのけにして微笑《ほほえ》んでいた。良心は姿を消した。彼は口をつぐんだ。戦慄《せんりつ》が大波のように二人を揺り動かした……。
 その夜、クリストフは自分の室にもどって一人きりになると、自殺しようという考えを起こした。
 つぎの日、彼は起き上がるとすぐにアンナを捜した。今はもう彼のほうで彼女の視線を避けていた。彼女の眼に出会うと、言うべきことも頭から消えてしまった。それでも彼は努力して、二人の行ないの卑劣さを言い出し始めた。彼女はそれを知るや否や、彼の口を手で激しくふさいだ。眉根《まゆね》をひそめ、唇《くちびる》をきっと結び、不快な表情をして、彼を押しのけた。彼は言いつづけた。彼女はもってた仕事を下に投げ捨て、扉《とびら》を開いて、出て行こうとした。彼はその両手をとらえ、扉を閉ざした。犯した罪の観念を彼女が頭から消し得るのは仕合わせだ、と苦々しげに言ってやった。彼女は激しく身をもがき、憤然として叫んだ。
「お黙んなさい!……卑怯者《ひきょうもの》、あなたには、私の苦しんでることがわからないんですか。……あなたから言ってもらいたくありません。打っちゃっといてください!」
 彼女の顔はくぼんでいた。眼つきは害された獣のそれのように、恨みと恐れとを含んでいた。もしできるなら彼を殺したいような眼だった。――彼は彼女を放した。彼女は室の他の隅へ逃げていった。彼はそれを追っかけたくなかった。悲痛と恐怖とに心がしめつけられていた。ブラウンが帰って来た。二人は茫然《ぼうぜん》と彼をながめた。自分の悩み以外には、何物も二人にとっては存在しなかった。
 クリストフは外に出た。ブラウンとアンナとは食卓についた。食事の最中に、ブラウンはにわかに立ち上がって窓を開けた。アンナが気絶したのだった。

 クリストフは旅行を口実にして、その町から二週間姿を隠した。アンナは一週間の間、食事の時間を除いては、居室に閉じこもってばかりいた。彼女はまた自分の良心や習慣にとらえられ、脱したとみずから思っていたがけっして脱せられるものではない、過去の生活にまたとらえられた。いくら眼をふさいでも駄目《だめ》だった。日ごとに心痛が増してきて、心の奥深くはいり込んで来、ついにはそこに腰をすえてしまった。つぎの日曜日には、彼女はなお寺院へ行くのを断わった。しかしそのつぎの日曜日には、寺院へ出かけて、それからもうけっして欠かさなかった。彼女は服従したのではなかったが、打ち負かされてしまった。神は敵であった――のがれることのできない敵だった。彼女は神のもとへ、服従を強《し》いられた奴隷のような暗黙の憤りをいだいておもむいた。彼女の顔にはその礼拝の間、敵意ある冷淡さしか見えなかった。しかし魂の奥底では、彼女の宗教的生活はすべて、主《しゅ》にたいする
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