もっていて、自己の卓越と自分の町の卓越とを平然と信じ込んで、家居《かきょ》的な孤立を喜んでいた。広くひろがった分枝をもってる古い家柄があった。そして各家庭には身内の者だけの会合日があった。身内以外の者にたいしてはほとんど門戸を閉ざしていた。古来の財産を有してるそれらの強大な家は、自分の富を人に示す必要を少しも感じなかった。どの家もたがいによく知り合っていて、それで十分だった。他人の意見なんかは物の数でなかった。そこで見かける多くの百万長者らは、小有産者めいた服装をし、風味ある文句をそなえた嗄《しわが》れた方言を話し、もっとも勤勉な者さえ休息を欲するほどの年齢になってもなお、生きてる限りは毎日、勤直に役所へ通っていた。彼らの細君らは家政の知識を誇っていた。娘らには少しも嫁入り財産を与えなかった。富者らは昔自分がやってきたとおりの辛《つら》い丁稚《でっち》修業を、そのまま子供たちにやらしていた。日常の生活には厳格な倹約が守られていた。しかしそれらの莫大《ばくだい》な財産はきわめて高尚に使用されて、芸術品の蒐集《しゅうしゅう》や、絵画の陳列や、社会事業などがなされていた。慈善事業の設立や、博物館の補助などに、巨額な継続的な金が、たいていいつも匿名で寄付されていた。どちらも今の時代に見られないほどの偉大さと滑稽《こっけい》さとの混合だった。この世界にとっては、自分以外の世界はまるで存在しないかのようだったし――(とは言え、実際にやってる事業や、広い交渉関係や、息子《むすこ》どもにやらせる長い遠い見学旅行などによって、他の世界のことをよく知ってはいた)――またこの世界にとっては、大なる名声も、他国における高名も、自分でそれを迎え認めるまでは、まったく物の数でなかったのであるが、そういうこの社会自身では、もっとも厳格な規律を守っていた。すべての人が関係し合い監視し合っていた。その結果一つの集団的意識が生じて、それが宗教および道徳上の一律な覆面の下に、個人的差異――それらの剛腹《ごうふく》な個性の間にもっとも強く現われる差異――を覆《おお》いかくしていた。皆の者が宗務を守り信仰していた。一人として疑惑をいだいてる者はなく、または疑惑をいだいてると承認したがる者はなかった。それらの魂は、偏狭な監視に取り巻かれてることを知っており、各自に他人の良心をのぞき込む権利を※[#「りっしんべん+僭のつくり」、143−18]有《せんゆう》していたので、なおいっそう堅く人目に扉《とびら》を閉ざしていて、その奥にいかなることが起こってるかを知るのは不可能だった。土地を離れて解放されたように思ってる人々でさえも、その土地にふたたび足を踏み込むや否や、町の伝統と習慣と空気とにとらえられるかのようだった。もっとも信仰の薄い人々でもすぐに、宗務を守り信仰することを強《し》いられた。信仰しないということは、自然に反することのように彼らには思われたに違いない。信仰しないということは、風儀の悪い下賤《げせん》な階級のことどもだった。宗教上の義務を怠ることは、彼らの社会には許されなかった。宗務を守らない者はその階級から放逐されて、もうふたたび受けいれられることがなかった。
そういう規律の重みだけではまだ足りないかのようだった。彼らはその階級中に十分結合されてるとは思っていなかった。その大きな団体《フェライン》の内部に、彼らは自分をすっかり束縛するために多数の小団体をこしらえていた。幾百もの団体があって、しかも年々さらに増していった。博愛事業のためにも、信仰事業のためにも、商売事業のためにも、商売と信仰とを兼ねた事業のためにも、美術のためにも、学問のためにも、歌や音楽のためにも、精神的鍛錬のためにも、肉体的鍛錬のためにも、また単に集合するためにも、いっしょに楽しむためにも、あらゆることのために団体があった。町内の団体もあれば、同業組合の団体もあった。同じ身分と同じ財産とをもってる者、同じ勢力をもってる者、同じ名前をもってる者など、さまざまの団体があった。フェラインローゼン(いずれの団体《フェライン》にも属していない人々)は十人足らずであったけれど、それらの人々の団体を一つこしらえる意向があるとさえ言われていた。
町と階級と団体との三重の胸当ての下に、人の魂は縛られていた。隠れたる抑制のために性格は圧迫されていた。多くの人々は、幼年時代から――数世紀以前から――それらに馴《な》らされていた。そしてそれを健全なことだと思っていた。その胸当てをはずすのは不穏当な不健全なことだと考えがちだった。彼らの満足げな微笑を見ては、彼らが窮屈を感じていようとはだれにも思えなかった。しかし自然は返報をしていた。遠い間を置いてときどき、反抗した個人が、強健な芸術家や無拘束な思想家が、そこから出て来て、乱暴に縛《いまし》めを断ち切り、町の番人らを当惑さした。しかし彼らはきわめて利口だったので、その反抗者が卵のうちに窒息されない場合、それがいっそう強い場合には、あくまでそれを攻撃しようとはがんばらないで――(戦いはおぞましい爆発を招く恐れがあった)――それを買収した。画家だったらそれを美術館に入れ、思想家だったらそれを図書館に入れた。反抗者がいくら咽《のど》をからして無法なことを叫んでも甲斐《かい》がなかった。彼らは聞こえないふうを装った。いくら反抗者は自己の独立を抗弁しても、彼らの仲間に引きずり込まれた。そういうふうにして毒の効果は中和された。それは同種療法《ホメオパチー》のやり方だった。――しかしそういう場合はめったになかった。反抗者の多くは世間に現われなかった。それらの平穏な家の中に人知れぬ悲劇は潜んでいた。家族の者が、なんとも訳を言わずに静かな足取りで、河に身を投げに出かけることもあった。あるいは精神を立て直すために、半年も室に閉じこもったり、細君を療養院に入れたりした。そしてあたかも当然の事柄でも話すように、沈着な態度で平気にそのことを話していた。その沈着こそ、この町のりっぱな特徴の一つであって、苦悶《くもん》や死に面しても人々はそれを失わなかった。
この剛毅な市民は、自己の価値を知っていたから自己にはきわめて厳格であり、他人をさほど尊敬しなかったから他人にはさほど厳格でなかった。クリストフのように町に滞在している他国人、ドイツ人の教師や政治上の亡命者などにたいしては、かなり寛大な態度をさえ示していた。なぜなら、そういう連中は彼らに無関係だったから。そしてまた、彼らは才知を愛していた。進歩した観念にもたじろがなかった。自分の息子《むすこ》どもにはそれがなんらの影響をも与えないことを知っていた。彼らはその滞在客にたいして、冷淡な温厚さを示して敬遠していた。
クリストフはそういうことを人から力説されるに及ばなかった。彼はいらいらした神経過敏の状態にあって、心が真裸になっていた。至る所に利己主義と無関心とを認めがちであって、自分だけのうちに潜みたがっていた。
そのうえ、ブラウンの患者範囲や、彼の細君が属してるごく狭小な一団は、ことに謹厳な新教《プロテスタント》の小社会に属していた。クリストフはこの社会では、生まれはローマ教徒であり事実は無信仰者であるとして、二重に悪く見られていた。彼のほうから言えば、多くの不快な事柄が眼についた。彼はいくら信じまいとしても、カトリック教の古い痕跡《こんせき》をになっていた。それは論理的というよりもいっそう詩的であり、自然にたいして寛容であり、愛するか愛しないかが主眼であって、説明したり理解したりすることにそれほど齷齪《あくせく》しなかった。また彼は、パリーで知らず知らず得てきた知的および道徳的自由の習慣をもっていた。彼はどうしてもその祗虔主義《ピエティスム》の小社会と衝突せずにはいられなかった。そこではカルヴァン派の精神的欠陥が誇大に現われていた。それは信仰の翼を切ってつぎに信仰を深淵《しんえん》の上につるしておく、宗教上の純理主義であった。なぜなら、あらゆる神秘説と同様に議論の余地ある、一つの先入見《ア・プリオリ》から出発していたからである。それはもはや詩ではなく、散文でもなく、散文化された詩であった。理知的|傲慢《ごうまん》であり、理性にたいする――自分の[#「自分の」に傍点]理性にたいする――絶対的な危険な信仰であった。彼らは神をも不滅をも信じないでいられた。しかし、カトリック教徒が法王を信じあるいは拝物教徒が偶像を信ずるように、彼らは理性を信じていた。理性を論議することは念頭にも浮かべなかった。人生が理性に矛盾するならば、むしろ人生のほうを否定したであろう。心理が欠乏しており、自然にたいして、隠れたる力にたいして、生存の根源にたいして、「大地の霊」にたいして、無理解だった。一つの人生をこしらえ出し、幼稚な単純化した概要的な生存をこしらえ出していた。彼らのうちのある人々は、教養があり実務の才があった。読書も見聞も広かった。しかし何事にも実際どおりに見たり読んだりしてはいなかった。抽象的な帰納ばかりを事としていた。血液の量が貧弱だった。精神上のすぐれた性質をもってはいたが、十分に人間的ではなかった。そしてこの人間的でないということこそ、最上の罪過である。彼らの心の純潔さは、たいていきわめて現実的であり、高尚で率直であり、時としては喜劇的であったが、不幸にもある場合には悲劇的となった。その心の純潔のために彼らは、他人にたいして酷薄になり、自己を信じきった冷静平然たる驚くばかりの不人情になった。どうして彼らは躊躇《ちゅうちょ》することがあったろう。真理と権利と徳とを自分のほうにもっていたのだ。神聖な理性の直接の啓示を受けていたのだ。理性こそは酷烈な太陽である。それは光被する。しかし、人を盲目ならしむる。水蒸気も影もない乾燥したその光の中では、人の魂は色|褪《あ》せた伸び方をし、その心臓の血は吸い取られてしまう。
しかるに、当時クリストフにとって何か無意義なものがあったとしたら、それこそまさに理性であった。彼の眼には、理性の太陽は深淵《しんえん》の岩壁を輝《て》らすばかりであって、深淵から出る方法を示してもくれなければ、深淵の深さを測ることさえ得さしてくれないのだった。
芸術家仲間にたいしては、クリストフは接触の機会をあまりもたなかったし、接触したいとはなおさら思わなかった。音楽家らはたいてい、クリストフが昔攻撃したことのある、新シューマン派およびブラームス派の時代の正直な保守党だった。ただ例外な者が二人いた。一人はクレブスというオルガニストで、名高い菓子屋を営んでおり、善良な男で、いい音楽家で、同郷人の一人の言葉をかりて言えば、「あまり燕麦《からすむぎ》を食わせすぎたペガソスに乗っていなかったら」、もっといい音楽家になれたはずだった。も一人はユダヤ系の若い作曲家で、強健な混濁した活気に満ちてる独創の才をそなえていた。そして木の彫刻、ベルン製の城や熊《くま》の人形など、スイスの物産を商っていた。彼らは自分の芸術を職業としていないせいであろうが、他の人々よりもいっそう独立的であったから、クリストフと接するのを喜んだに違いない。そして他のときだったら、クリストフも彼らと知り合いになりたく思ったに違いない。しかしちょうどそのころ彼は、芸術的なまた人間的な好奇心が鈍っていた。自分を人間に結びつけるものよりも、自分を人間から引き離すもののほうにより感じやすかった。
彼の唯一の友であり、思いを打ち明ける相手となるものは、町を貫流してる河であった。――彼方《かなた》北方において彼の故郷の町を流れてる、あの力強い親愛な河と同じ河だった。クリストフはこの河のほとりで、幼年時代の夢想の思い出を見出した……。しかし友の喪に包まれてる今では、それらの思い出はライン河自身と同じく、陰鬱《いんうつ》な色を帯びていた。夕暮れのころ、河岸《かし》の胸壁にもたれて、彼はあわただしい河の流れをながめた。常に流れ去ってる、重々しい半濁の忙しい一団の水量の中に、それと見
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