はよろめき、唸《うな》りながら胸を押えた。あるとき、彼はピアノについて、昔のような熱心さで、ベートーヴェンの一節をひいていた……とにわかに、ひくのをやめ、そこに倒れ伏して、肱掛椅子《ひじかけいす》の布団《ふとん》に顔を埋めながら、叫び泣いた。
「ああ、君……。」
 もっともいけないのは、「すでに生きた」という印象だった。彼はたえずその印象を受けた。同じ身振り、同じ言葉、同じ経験の不断の反覆を、いつも見出した。彼はすべてのことを知っていたし、すべてのことを予見した。昔のある面影を思い起こさせるような顔だちは、昔彼がその人から聞いたと同じ事柄を、言おうとしていた――(彼は前もってそれを確かに知り得た)――そして実際言っていた。同じような人々は、同じような経過をとって、同じ障害にぶつかり、同じく身を磨《す》りへらしていた。「恋のやり直しほど世に懶きものはない[#「恋のやり直しほど世に懶きものはない」に傍点]」ということが真であるとするならば、すべてのやり直しはさらにいかほど懶いことであろう! それは人の気を狂わせるようなものだった。――クリストフはそれを考えまいとつとめた。生きるためにはそれを考えないことが必要だったからであり、そして彼は生きたかったからである。それこそ、恥辱の念からまた憐憫《れんびん》の念から自己を知りたがらない痛ましい欺瞞《ぎまん》であり、底に隠れてる不可抗な生の欲求である。慰安がないことを知りながら、慰安を創《つく》り出す。生には存在理由がないことを知らせられながら、生きる理由をこしらえ出す。自分以外のだれにもかかわりのないときでさえ、自分は生きなければならないと思い込む。必要によっては、死者も自分に生きよと励ましてるのだと想像するだろう。そして実は、言ってもらいたいと思う言葉を死者に無理に押しつけてるのだということを、みずからよく知っているのである。なんたる惨めなことであろう!……
 クリストフはまた自分の道を進みだした。彼の足取りは昔の確実さを回復したかのようだった。心の扉《とびら》は苦悶《くもん》にたいしてまた閉められた。彼はその苦悶をけっして他人に語らなかった。彼自身も苦悶と差し向かいになることを避けた。彼は落ち着いてるように見えた。

 ほんとうの苦しみは、それがみずからこしらえた深い寝床の中に、平静な様子で横たわって、あたかも眠ってるがように見えるけれど、しかしなおそこで、魂を腐蝕《ふしょく》しつづけるものである。――とバルザックは言っている。

 クリストフをよく知ってる人で、クリストフが行ったり来たり話したり作曲したり笑いまでするのを――(彼は今では笑っていたのである!)――よく観察する者があったならば、この活気に燃えたった眼をしてる強健な男のうちに、その生の奥底に、ある破壊されたものがあることを、感じたであろう。

 彼は生に立ち直ってからは、糊口《ここう》の方法を安全にしなければならなかった。その町を去ることは彼にとって問題であり得なかった。スイスはもっとも安全な避難所だった。そしてまた、どこでこれ以上の親切な待遇を見出し得よう?……しかし彼の自尊心は、友の世話になってるという考えに晏如《あんじょ》たることができなかった。ブラウンは言い逆らって、何も受け取ろうとしなかったけれど、彼はある音楽教授の口を見つけて、一定の宿料を払い得るようになるまでは、安心がゆかなかった。それはたやすいことではなかった。彼の革命的暴挙の噂《うわさ》は広まっていた。そして中流人の家庭では、危険人物だとされてる男、もしくは結局並みはずれた人物だとされ、その結果あまり「穏当」でない人物だとされてる男を、家に入れることをいやがった。それでも、彼の音楽上の名声とブラウンの尽力とで、四、五の家庭に近づくことができた。それらの家庭は、さまで小心翼々としてないかあるいはいっそう好奇心に富んでるかしていて、おそらく芸術上の見栄から奇を衒《てら》いたがってたのであろう。とは言え、きわめて注意深く彼を監視して、師弟の間に適宜な距離を保たしめていた。
 ブラウンの家では、生活が一定の規則正しい方式で整えられた。午前中は各自に自分の仕事にかかった。医師は往珍に出かけ、クリストフは教えに出かけ、ブラウン夫人は買い物や信心深い仕事におもむいた。クリストフはたいていブラウンより先に一時ごろ帰ってきた。ブラウンは自分の帰りを待たせないようにしていた。それで彼は若い夫人といっしょに食卓についた。それはあまり愉快なことではなかった。彼女は彼に同情をもっていなかったし、彼は彼女に何にも話すことがなかった。そういう感じを彼女は意識せざるを得なかったが、しかし少しも打開しようとは骨折らなかった。彼女は化粧にも才知にも気を配らなかった。クリストフへこちらから先に言葉をかけることなんか嘗《かつ》てなかった。挙動や服装の無作法さ、その無器用さや冷淡さは、クリストフのように女性の優姿に敏感な者を、すべて遠ざけるほどだった。クリストフはパリー婦人の霊妙な優美さを思い起こしては、アンナをながめながら、こう考えずにはいられなかった。
「なんて醜いんだろう!」
 でもそれは正当ではなかった。やがて彼は、彼女の髪や手や口の美しさに気づいた――いつもそらされてばかりいる彼女の視線にたまに出会うと、その眼の美しさに気づいた。しかし彼の判断はそのために変わりはしなかった。彼は礼儀上彼女へ強《し》いて話しかけた。話題を見つけるのに骨が折れた。彼女はそれを少しも助けてくれなかった。二、三度彼は、町のことや夫のことや彼女自身のことを尋ねかけてみた。が何にも聞き出し得なかった。彼女はありふれた答えばかりをした。つとめて微笑《ほほえ》んでいたが、その努力も不愉快な感じを与えるものだった。微笑は無理なものであり、声は重々しかった。一語一語語尾を切り、一句一句に苦しい沈黙がつづいた。クリストフもついにはできるだけ話しかけなくなった。彼女にはそのほうがありがたかった。医師が帰ってくると二人はほっとした。医師はいつも上機嫌《じょうきげん》で、騒々しくて、せかせかして、俗っぽくて、好人物だった。盛んに食い飲み語り笑った。彼といっしょだとアンナも少し口をきいた。しかし二人の話はたいていいつも、食べてる料理のことや品物の価のことばかりだった。時とするとブラウンは、彼女の宗教上の仕事や牧師の説教などについて、彼女をからかって面白がった。すると彼女は固苦しい様子をし、食事が済むまでむっつり黙り込んだ。彼はまたしばしば往診の話をした。好んで嫌《いや》な患者のことを述べたて、あまり微細にしゃべりたてるので、クリストフは憤慨した。ナプキンを食卓に放り出し、嫌悪《けんお》の渋面をして立ち上がった。それがブラウンには面白かった。ブラウンはすぐに話しやめて、笑いながらなだめた。がそのつぎの食事のときにもまた話し出した。病気に関するそれらの冗談には、冷然たるアンナを歓《よろこ》ばせる力があるかのようだった。彼女は沈黙を破って、突然神経質に、何かしら動物的な笑いをたてるのだった。おそらく彼女は自分が笑ってる事柄にたいしては、クリストフに劣らぬ嫌悪《けんお》の情を覚えていたのであろう。
 午後は、クリストフにはあまり弟子がなかった。医師は外出したが、彼はたいていアンナとともに家にいた。二人は顔を合わせなかった。各自に仕事をしていた。最初ブラウンは、妻へピアノを少し教えてくれとクリストフに頼んだ。彼に言わすれば、彼女はかなりりっぱな音楽家だった。クリストフはアンナに何かひいてくれと願った。彼女はひきたくなかったけれど、少しも遠慮はしなかった。しかし例のぶっきら棒な調子でやった。機械的なこの上もない無感覚なひき方だった。どの音も同じようだった。どこにも抑揚がなかった。楽譜のページをめくるときには、楽句のまん中であろうと冷やかにひきやめ、少しも急ごうとせず、そしてつぎの音をひきだした。クリストフは腹をたてた。ひどい悪口が出かかってくるのを押えて、曲が終わらないうちに室から逃げ出した。彼女はそれを気にもかけずに、平然と最後の音符までひきつづけた。彼の無礼な仕打ちを恥じても怒ってもいない様子だった。そんなことにはほとんど気づいてもいないらしかった。しかしそれからはもう、二人の間には音楽は問題とならなかった。けれどクリストフが午後に外出して、ふいに帰ってきてみると、アンナが同じ小節を何十回となくあきずに繰り返して、しかもけっして興奮することなしに、無味冷淡な執拗《しつよう》さでピアノを研究してることがあった。彼女はクリストフが家にいるとわかってるときには、けっして音楽をやらなかった。彼女は宗教上の仕事の残りの時間を、すっかり世帯のことに使っていた。着物を縫ったり、縫い直したり、また女中の指図をした。整頓《せいとん》と清潔とに病的なほど気を配った。夫は彼女のことを、ちょっと変な――それも彼の言葉によれば、「あらゆる女と同様に」ちょっと変な善良な女だと思い、「あらゆる女と同様に」忠実な女だと思っていた。この第二の点についてはクリストフはひそかに[#「ひそかに」に傍点]異義をいだいていた。そういう考え方はあまりに単純なような気がした。しかしそれは要するにブラウンだけに関することだと思って、もう念頭に置かなかった。
 晩には、食事のあとで皆集まった。ブラウンとクリストフとは話をした。アンナは仕事をした。ブラウンの頼みで、クリストフはピアノにつくのを承諾した。庭に臨んだ薄暗い大きな客間のほうで、一時過ぎまでひきつづけることもあった。ブラウンは恍惚としていた……。作品を少しも理解せず、あるいは曲解ばかりしてるくせに、それに熱中するような者が世にはたくさんある。――(しかし理解しなかったり曲解したりするからこそ、彼らはその作品を好むのである。)――クリストフはもう腹をたてなかった。彼はすでにこの世で多くの愚人らに出会っていた。しかしある滑稽《こっけい》な感激の声をきくと、彼はひきやめて、なんとも言わずに自分の室へ上がっていった。ブラウンもついにはその訳を知って、自分の考えはいっさい漏らさないことにした。そのうえ、音楽にたいする彼の嗜好《しこう》はすぐに飽満した。十五分とつづいて注意深く聴《き》くことができなかった。クリストフのほうを抛《ほう》っておいて、新聞を取り上げたりうとうとしたりした。アンナは室の奥にすわって、一言も口をきかなかった。膝《ひざ》の上に仕事を広げて働いてるふうだった。しかしその眼はすわっており手は動いていなかった。時とすると曲の半ばに音もなく出て行って、ふたたび姿を見せないこともあった。

 かくして日々は過ぎていった。クリストフは力を回復した。ブラウンの鈍重ではあるがしかしやさしい親切、家の中の静穏、家庭生活の慰安的な整頓《せいとん》、ゲルマン風のいやに豊富な食物の摂取、などは彼の強健な気質を復旧してくれた。身体の健康は立て直された。しかし精神機能はやはり病弱だった。復活してきた体力は精神の錯乱を募らせるばかりだった。船足のよくとれてない船がわずかな物にぶつかってもぐらつくと同じく、精神は以前のような平衡を保つことができなかった。
 彼の孤独は深かった。ブラウンとはなんらの精神的親しみももち得なかった。アンナとの関係はおおよそ朝晩にかわす挨拶《あいさつ》くらいなものだった。弟子たちとの間柄はむしろ反目的だった。そんなではもう音楽なんかやらないほうがいいという考えを、彼は弟子たちにあまり隠さなかったからである。また彼にはだれも知人がなかった。それは、友の死以来いつも片隅《かたすみ》に引っ込んでる彼の罪ばかりではなかった。人々は彼をのけ者にしていた。

 彼が住んでるその古い町は、才知と力とに充《み》ち満ちていたが、また、自分だけのうちに閉じこもって自分に満足してる、貴族的|傲慢《ごうまん》さにも充ち満ちていた。それは有産的貴族社会であって、仕事にたいして趣味をもち、高尚ではあるがしかし狭い祗虔《しけん》的な教養を
前へ 次へ
全37ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング