なかった。
それから一週間ばかりあとに、クリストフはこしらえたばかりの歌曲《リード》をピアノでひいてみた。ブラウンは夫としての自尊心とからかい好きの心とで、いつも細君を歌わしたり演奏さしたりしたがっていじめていたが、その晩はことに執拗《しつよう》だった。アンナはたいてい、ごく冷淡な拒絶を一言いうだけで、そのあとではもう、いくら頼まれても願われてもまたは冗談を言われても、返辞さえしようとしなかった。きっと口を結んで、聞こえないふうをしていた。ところがその晩、ブラウンとクリストフとが非常に驚いたことには、彼女は仕事を片付け、立ち上がって、ピアノのそばにやって来た。そして一度も読んだことのないその曲を歌った。それは一種の奇跡――まったく[#「まったく」に傍点]の奇跡だった。深い音色をもったその声は、彼女がいつも話すときのやや嗄《しわが》れた曇った声とは似てもつかなかった。最初の音符からしっかりと歌い出して、なんら不安の影もなしに、人の心を動かす純潔な偉大さを、たやすくその楽句に与えたのだった。そして激しい熱情の域へまで達したので、クリストフはぞっと身を震わした。なぜなら彼には、彼女が自分自
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