ぎつぎに浮かんできた……。彼は書きに書いた、シャツの袖《そで》にも帽子の裏にも書いた。いかに早く書いても思想の早さに及ばなかったので、一種の速記法を用いなければならなかった……。
それは奇形な記述ばかりだった。それらの観念を普通の音楽形式の中に流し込もうとすると、困難が生じてきた。昔の鋳型が一つも適応しないことを彼は見出した。自分の幻想を忠実に書き止めようとすれば、これまで聞いた音楽をすべて忘れ、これまで自分が書いたものをすべて忘れることが、まず必要だった。学び知った固定形式をことごとく一掃し、伝統的な技巧を一掃し、無能な精神の松葉杖《まつばづえ》を捨て去り、自分で考える労を避けて他人の思想中に臥《ふ》すような人々の怠惰のためにできてる、その臥床《ふしど》を捨て去らねばならなかった。先ごろ、彼は自分の生活と芸術との成熟期に達したと思っていたとき――(実は生活の一段階を終えたにすぎなかったのであるが)――そのころ彼は、自分の思想が生まれる以前から存在してる言語でおのれを表現していたのだった。彼の感情は以前からでき上がってる発想の論理におとなしく服従していて、その論理が前もって彼に楽句の一部を口移しにしてくれ、公衆が待ち受けてる適宜な用語へ、開けた道を通って彼を従順に引き連れていってくれたのだった。ところが今では、もはや道は一つもなく、感情がみずから道を開かねばならなかった。精神はただそれについて行くだけのことだった。精神の役目はもはや、熱情を叙述することでさえなかった。精神は熱情と一体をなさねばならず、熱情の内部の法則を奉じようとしなければならなかった。
同時に種々の矛盾が落ちかかってきた。クリストフはそうだと自認しはしなかったが、もう長い前からそれらの矛盾に悩んでいた。彼は純粋な芸術家ではあったが、芸術に関係のない考慮を自分の芸術に交えがちだった。彼は自分の芸術に一つの社会的使命をになわしていた。そして自分のうちに二人の者がいることに気づかなかった。その一つは、道徳上のなんらの目的をも懸念せずにただ創作する芸術家であり、一つは、自分の芸術が道徳的で社会的であることを欲する理屈好きの実行家だった。両者は時とするとたがいに相手を妙な困難のうちに陥れ合った。ところが今や創作の全観念が、有機的法則をそなえてるすぐれた一つの現実のように、彼へのしかかってきたので、彼は実際的理性の軛《くびき》からのがれたのだった。もとより彼は当時の無気力な不道徳にたいしては、軽蔑《けいべつ》の念を少しも失いはしなかった。彼がやはり考えていたところによれば、不潔な芸術は芸術の最下等なものであった。なぜなら、それは芸術の一つの病気であって、腐敗した木に生ずる茸《きのこ》であった。しかしながら、快楽のための芸術は芸術の淫売《いんばい》であるとしても、彼はそれにたいして、道徳のための芸術という浅見な功利主義、鋤《すき》を引いてる翼なき神馬ペガソスを、押し立てはしなかった。最高の芸術、芸術たる名に恥ずかしからぬ唯一の芸術は、一時の法則を超越してるものである。それは無限界に投ぜられたる彗星《すいせい》である。実際的事物の範囲内において、その力が有益なることもあり得るだろうし、無益もしくは危険であると見えることもあり得るだろう。しかしそれは力であり、火であり、天より迸《ほとばし》った電光である。したがってそれは神聖なるものであり、善をなすものである。その善行は幸いにも実際的種類のものでさえあり得る。しかしその神聖なる真の善行は、信仰と同じく、超自然的種類のものである。この力はそれが発してきた太陽に似ている。太陽は道徳的でも不道徳的でもない。それは存在する者[#「存在する者」に傍点]である。それは闇黒を征服する。芸術もまた然りである。
芸術の手に委《ゆだ》ねられたクリストフは、思いもつかない未知の力が自分のうちから迸り出るのを見て、呆然《ぼうぜん》たらざるを得なかった。それは、彼の情熱や悲哀や意識的な魂などとはまったく別なもので――彼がこれまで愛し持ち堪えたものとは、彼の全生活とは、無関係な別種の魂であり、快活な奇怪な粗野な不可解な魂であった。その魂が彼の上にまたがって、彼の脇《わき》腹を拍車で蹴《け》りつけた。そしてときおり、彼は息をつくこともできないで、自分の書き上げたものを読み返しながら、みずから怪しんだ。
「これはどうしたのか、こんなものが俺《おれ》の身体から出たというのか?」
彼はあらゆる天才が経験する精神の逆上にとらえられ、意志を脱してる一つの意志、「世界と生との名状しがたき謎[#「世界と生との名状しがたき謎」に傍点]」、ゲーテのいわゆる「悪魔的なるもの[#「悪魔的なるもの」に傍点]」にとらえられた。彼はそれにたいしてなお武装してはいたが、しかしそれ
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