彼自身の戦いのごときは、人間同士の戦いのごときは、この巨大な白熱戦の中に消え失せてしまった。そこでは日の光が嵐《あらし》に吹かるる雪片のように雨降っていた……。クリストフは自分の魂を脱ぎ捨ててしまった。夢の中で宙にぶら下がってるのと同じように、彼は自分自身の上方を飛んでいて、事物の全体中に高くから自分をながめた。自分の苦しみの意義が、一目でわかってきた。彼の闘争は世界の大戦闘の一部をなしていた。彼の敗北は些事《さじ》であって、すぐに回復されるものだった。彼は万人のために戦っていたし、万人も彼のために戦っていた。万人が彼の苦難に与っていたし、彼も万人の光栄に与《あずか》っていた。

 ――味方の者らよ、敵の者らよ、進み行き、俺《おれ》を踏みつぶせよ。勝利を得る砲車の通過を、俺の身体の上に感じさせよ。俺は俺の肉体を粉砕する鉄火のことを考えず、俺の頭を踏みつぶす足のことを考えない。俺の復讐者[#「復讐者」に傍点]のこと、上帝[#「上帝」に傍点]のこと、無敵の軍勢の首長[#「首長」に傍点]のこと、それを俺は考えている。俺の血は彼の未来の勝利のセメントとなるのだ……。
 神は彼にとっては、無感無情な創造主[#「創造主」に傍点]ではなかった。みずから火を放った都市の火災を青銅の塔の上からながめてるネロ皇帝ではなかった。神は苦しんでいた。神は戦っていた。すべての戦う人々とともに戦い、すべての苦しむ人々のために苦しんでいた。なぜなれば、神は生[#「生」に傍点]であり、闇の中に落ちてる一点の光明であった。その光明は広がって、闇夜をものみつくそうとする。しかし闇夜は無際限である。そして神の戦いはけっしてやむことがない。結果がどうなるかはだれにもわからない。それは勇壮なる交響曲[#「交響曲」に傍点]であって、たがいに衝突し入り乱れる不協和音までが、一つの清朗な協奏をなしている。静寂のうちに奮闘してる※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》の森のように、生[#「生」に傍点]は永遠の平和のうちに戦っている。
 その戦いと平和とが、クリストフのうちに鳴り響いた。彼は大洋の音を響かす貝殻《かいがら》に似ていた。主権的な律動《リズム》に導かれてる、らっぱの呼び声、音響の颶風《ぐふう》、英雄詩的喚声が、通りすぎていった。なぜなら、彼の朗々たる魂の中ではすべてが音響に変化した。その魂は光明を歌っていた。闇黒を歌っていた。生を歌い死を歌っていた。戦いに勝った人々のために歌っていた。打ち負けた彼自身のためにも歌っていた。それは歌いに歌っていた。すべてが歌っていた。もはやそれ自身が歌にほかならなかった。
 あたかも春の雨のように、音楽の奔流は冬に亀裂《きれつ》したこの地面中に吸い込まれていた。恥辱も悲痛も憂苦も、今ではその神秘な使命を現わしていた。それらのものは土地を分解し、土地を肥やしていた。苦悩の鋤《すき》の刃は心を引き裂きながら、生の新たな泉を開いていた。荒れ地はふたたび花を咲かしていた。しかしそれはもはや昨春の花ではなかった。一つの別な魂が生まれていた。
 その魂は刻々に生まれつつあった。なぜならば、生長の限界に達した魂のように、将《まさ》に死なんとする魂のように、まだ骨化してはいなかった。まだ立像ではなかった。溶解してる金属であった。この魂は刻々に新しい世界となされていた。クリストフは自己の範囲を定めようとは思わなかった。過去の重荷を後ろに投げ捨て、若々しい血と自由な心とで、長い旅に出発して、海洋の空気を呼吸し、終わることなき旅であると考えてる人、そういう人と同じ喜びに彼は身を任した。世界に流れる創造力にふたたびとらえられた。世界の富が恍惚《こうこつ》の情で彼を満たした。彼は愛していた。彼は彼自身であるとともに、また隣人でもある[#「ある」に傍点]のだった。そしてすべてが、足に踏みしだく草から握りしめる人の手に至るまで、みな彼には「隣人」だった。一本の樹木、山の上の一片の雲の影、牧場の息吹《いぶ》き、星辰《せいしん》の群がってる騒々しい夜の空……それらを見ても血が湧きたった……。彼は語りたくもなく、考えたくもなく……ただ笑いたく泣きたく、その生ける玄妙のうちに融《と》け込みたいばかりだった。……書くこと、しかしなんのために書くのか? 名状しがたいものを書くことができようか?……しかしそれができようとできまいと、彼は書かねばならなかった。それが彼の掟《おきて》だった。彼はどこにいても、諸種の観念が電光のように落ちかかってきた。猶予してはいられなかった。そんなとき彼は、手当たり次第のもので手当たり次第のものの上に書きしるした。自分自身から迸《ほとばし》り出るそれらの楽句の意味を、自分でも説き得ないことが多いほどだった。そして書いてる間にも、他の観念がつ
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