フはぞっとした。そしてあわただしく立ち去った。その言葉が火箭《かせん》のように彼を貫いたのだった。
彼は森の中にはいり込み、自分の家の方へ坂を上っていった。心乱れていたので道に迷った。樅《もみ》の大きな森のまん中に出た。影と静寂とばかりだった。赤茶色の日光の斑《はん》点が少しばかり、どこからともなくさしてきて、濃い影の中に落ちていた。クリストフはそれらの光の延板から昏迷《こんめい》された。周囲はすっかり闇夜のようだった。脹《ふく》れ上がった血管のように突起してる木の根につまずきながら、樅の針葉の落ち敷いてる上を歩いていった。樹木の根元には一本の草も苔《こけ》もなかった。枝葉の中には一声の鳥のさえずりもなかった。下のほうの細枝は枯れていた。生命はことごとく日の当たる上のほうへ逃げていた。少し行くと、その生命さえも消滅していた。クリストフはある不可思議な害悪に侵されてる部分にはいった。蜘蛛《くも》の糸のような長い細かな地衣科の苔類が、赤い樅の枝を網で包み込み、それを頭から足までからげ上げ、木から木へ移っていって、森全体を窒息さしていた。陰険な触手をもってる海底の藻《も》に似ていた。そして太洋の深い底のような静寂がこめていた。上方には太陽が蒼ざめていた。枯死した森の隙間へ忍び込んできた霧が、四方からクリストフを取り巻いた。すべてが消え失せた。もう何物もなくなった。クリストフは三十分ばかりの間、白い靄《もや》の網の中を足に任せてさ迷うた。靄はしだいに濃く暗くなってきて、彼の喉《のど》へまではいってきた。彼はまっすぐに歩いてるつもりだったが、窒息した樅《もみ》からたれてる幾つもの大きな蜘蛛《くも》の巣の下を、ぐるぐる回ってるのだった。霧は蜘蛛の巣の間を通りながら、そこにうち震える雫《しずく》を残していった。ついに網の目が裂け、穴が一つ開いて、彼はその海中の森から出ることができた。彼はまた生きてる森に出会い、樅と※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》との黙々たる争闘を見た。しかしやはり同じ不動さだった。幾時間も前から醸《かも》されてる静寂がもだえていた。クリストフは立ち止まってその音を聞いた……。
突然、津浪の寄せてくるような音が遠くに聞こえた。先駆者たる一陣の風が森の奥に起こっていた。疾駆する鳥のように、それは樹木の梢《こずえ》に吹きつけて波打たした。竜巻《たつまき》に包まれて通りゆくミケランジェロの神のようだった。それはクリストフの頭の上を通っていった。森とクリストフの心とは震えおののいた。それは告知者だった……。
ふたたび静寂に帰した。クリストフはある聖なる恐怖にとらえられて、震える足で大急ぎに帰っていった。家の入り口で、あたかもだれかに追っかけられてるかのように、後ろを振り向いて不安な一|瞥《べつ》を投げた。自然は死んでるかのようだった。山の斜面を覆うている森は、重い憂愁に圧せられて眠っていた。じっと動かない空気は妙に澄み切っていた。なんの物音もしなかった。ただ急湍《きゅうたん》の悲しい音楽が――岩を浸触《しんしょく》してる水が――大地の喪鐘を鳴らしていた。クリストフは熱が出て寝床にはいった。隣の小屋では、彼と同じように不安を覚えてる家畜が動き回っていた……。
夜になった。彼はうとうとした。静寂の中に、遠い津浪の音がふたたび起こった。風はこんどは颶風《ぐふう》となって吹いてきた――まだ眠ってる寒がりの大地を熱い息で温める春の南風、氷を融《と》かして豊かな雨を集めてる南風。それが谷の彼方の森の中に宵のように吼《ほ》え立てた。そして近づいて来、脹《ふく》れ上がり、山の斜面を襲い上った。山全体が唸《うな》り出した。小屋の中では、一匹の馬がいななき多くの牛が鳴いた。クリストフは寝床に身を起こし髪を逆立てて聴《き》き入った。颶風が吹き来たって、わめきたち、風見《かざみ》を軋《きし》らせ、屋根の瓦《かわら》を飛ばし、家を震わした。花瓶《かびん》が一つ落ちてこわれた。クリストフの室の締まりの悪い窓は音をたてて開いた。熱い風が吹き込んだ。クリストフはそれを顔の真正面と露《あら》わな胸とに受けた。咽《む》せ返って口を開きながら寝床から飛び出した。あたかも彼の空しい魂の中に生ける神が飛び込んできたかのようだった。復活[#「復活」に傍点]!……空気は彼の喉の中へ吹き込み、新生の波は臓腑《はらわた》の底まではいり込んだ。彼は破裂する心地がし、叫びたくなり、苦悶と歓喜との声をあげたくなった。が口からは不|明瞭《めいりょう》な声が少し出たばかりだった。彼は颶風に舞いたってる紙片の中で、よろよろと歩き回り、両腕で壁をなぐりつけた。そして室のまん中に打ち倒れながら叫んだ。
「おう、汝《なんじ》、汝! 汝はついにもどってきた!」
「汝はもどっ
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