た。自分のためにか? しかし彼は死滅の空虚を満たすことのできない芸術の空《むな》しさをあまりに感じていた。ただ彼はときどき激しい羽ばたきをする盲目的な力に支配されたが、その力もやがてくじけて地に墜《お》ちてしまった。彼はあたかも闇の中に唸《うな》る雷雲に似ていた。オリヴィエがいなくなると、もう何にも残っていなかった――何にも。彼はこれまで自分の生活を満たしていたすべてのものにたいして、人類全体を共有してると思っていたあらゆる感情や思想にたいして、憤激したのだった。今となっては、自分はこれまで幻影に玩弄《がんろう》せられていたような気がした。すべて社会的生活は非常な誤解の上に立っていた。その誤解の源は言語にあった……。各思想はたがいに通じ合えるものだと人は思っている。しかし実際においては、言葉の間にしか関係は存しない。人は言葉を口にし言葉に耳を傾ける。そして異なった二つの口から出る言葉に、一語として同じ意味をもってるものはない。それだけならばまだしもであるが、ただの一語として人生にその全き意味をもってるものはない。あらゆる言葉はみな生きられた現実の外にはみ出している。人は愛や憎のことを口にする。しかし実際には、愛もなく、憎もなく、友もなく、敵もなく、信仰もなく、熱情もなく、善もなく、悪もない。ただあるものは、数世紀来死滅してる恒星《こうせい》から落ちてくる、それらの光の冷たい反映のみである……。友というのか? その名称を要求する者は乏しくない……。がそれもいかに無味乾燥な現実だろう。世間普通の意味では、そういう人々の友情とはいかなるものであるか、いったい友情とはいかなるものであるか。友であるとみずから思ってる人も、その生活の幾何《いくばく》の分秒を、自分の友の蒼《あお》ざめた思い出に分かち与えるであろうか。必要でさえもないもの、余分のものや隙《ひま》や退屈、それをどれだけ友にささげるであろうか。自分クリストフは何をオリヴィエにささげてきたか――(というのは、クリストフはすべての人間を一|括《かつ》した虚無から、自分をもけっして取り除かなかった、ただオリヴィエだけを取り除いていた。)――芸術ももはや愛と同じく虚偽なものである。芸術は実際のところ人生にいかなる地位を占めているか。芸術に愛着してると自称する人々も、いかなる愛でそれを愛しているか……。人間の感情の貧弱さは想像外である。世の中の槓桿《てこ》とも言うべき種族の本能以外には、その宇宙的な力以外には、ただ塵埃《じんあい》のごとき情緒が存するばかりである。大多数の人間は、なんらかの熱情に全身をささげるほど十分の活力をもっていない。彼らは用心深い吝嗇《りんしょく》さでおのれを倹約している。万事に少しずつかかわって、何事にも全身を打ちこみはしない。すべて自分のなすことに、すべて自分の苦しむことに、すべて自分の愛することに、すべて自分の憎むことに、無制限に没頭する者こそ、驚異に価する人であり、この世で出会い得るもっとも偉大な人である。熱情こそは天才のごときものであり、一つの奇跡である。ほとんど存在しないと言ってもよい……。
そういうふうにクリストフは考えていた。がそれについて、人生は恐ろしい否認を彼に投げつけようとしていた。石の中にも火があるように、奇跡は至る所にある。一撃のもとにそれは迸《ほとばし》り出る。吾人は吾人のうちに眠ってる悪魔を夢にも知らないのだ……。
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……予を醒まさざるよう声低く語れよ[#「予を醒まさざるよう声低く語れよ」に傍点]!……
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ある晩クリストフが即興的にピアノをひいていると、アンナは彼の演奏中にしばしばなすとおり、ふいに立ち上がって出て行った。音楽を嫌《いや》がってるがようだった。クリストフはもうそれを気にとめなかった。彼女がどう考えようと平気だった。そしてなおひきつづけた。それから、その即興の曲を書き止めてみたくなって、ひくのをやめ、必要な紙を取りに自分の室へ駆け出した。隣の室の扉《とびら》を開き、俯向《うつむ》きながら暗闇の中へつき進んでゆくと、その入り口にじっと佇《たたず》んでる人の身体に激しくつき当たった。アンナだ……。その衝突と驚きとのために、彼女は声をたてた。クリストフは怪我《けが》でもさせやしなかったかと心配して、やさしく彼女の両手を取った。その手は冷たかった。彼女は身震いしてるらしかった――おそらく驚きのためだったろう? 彼女は口ごもりながら、そこにいたわけを曖昧《あいまい》に述べたてた。
「食堂でちょっと……捜していましたので。」
何を捜していたかを彼は聞きもらした。たぶん彼女もそれを言わなかったのだろう。物を捜すのに燈火もつけないでうろうろしてるのが、彼には変に思われた。しかし彼は
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