うにもっていたのだ。神聖な理性の直接の啓示を受けていたのだ。理性こそは酷烈な太陽である。それは光被する。しかし、人を盲目ならしむる。水蒸気も影もない乾燥したその光の中では、人の魂は色|褪《あ》せた伸び方をし、その心臓の血は吸い取られてしまう。
しかるに、当時クリストフにとって何か無意義なものがあったとしたら、それこそまさに理性であった。彼の眼には、理性の太陽は深淵《しんえん》の岩壁を輝《て》らすばかりであって、深淵から出る方法を示してもくれなければ、深淵の深さを測ることさえ得さしてくれないのだった。
芸術家仲間にたいしては、クリストフは接触の機会をあまりもたなかったし、接触したいとはなおさら思わなかった。音楽家らはたいてい、クリストフが昔攻撃したことのある、新シューマン派およびブラームス派の時代の正直な保守党だった。ただ例外な者が二人いた。一人はクレブスというオルガニストで、名高い菓子屋を営んでおり、善良な男で、いい音楽家で、同郷人の一人の言葉をかりて言えば、「あまり燕麦《からすむぎ》を食わせすぎたペガソスに乗っていなかったら」、もっといい音楽家になれたはずだった。も一人はユダヤ系の若い作曲家で、強健な混濁した活気に満ちてる独創の才をそなえていた。そして木の彫刻、ベルン製の城や熊《くま》の人形など、スイスの物産を商っていた。彼らは自分の芸術を職業としていないせいであろうが、他の人々よりもいっそう独立的であったから、クリストフと接するのを喜んだに違いない。そして他のときだったら、クリストフも彼らと知り合いになりたく思ったに違いない。しかしちょうどそのころ彼は、芸術的なまた人間的な好奇心が鈍っていた。自分を人間に結びつけるものよりも、自分を人間から引き離すもののほうにより感じやすかった。
彼の唯一の友であり、思いを打ち明ける相手となるものは、町を貫流してる河であった。――彼方《かなた》北方において彼の故郷の町を流れてる、あの力強い親愛な河と同じ河だった。クリストフはこの河のほとりで、幼年時代の夢想の思い出を見出した……。しかし友の喪に包まれてる今では、それらの思い出はライン河自身と同じく、陰鬱《いんうつ》な色を帯びていた。夕暮れのころ、河岸《かし》の胸壁にもたれて、彼はあわただしい河の流れをながめた。常に流れ去ってる、重々しい半濁の忙しい一団の水量の中に、それと見分けられるものはただ、移り動く大きな波紋、無数の細流や奔流や渦《うず》巻ばかりで、それが形を現わしたり消えたりしていた。それはあたかも、幻惑してる思想の中における渾沌《こんとん》たる物象に似ていた。それはいつも描き出され、またいつも融《と》け合ってしまう。その薄ら明かりの夢の上を、一人の人影も見えない幽鬼めいた渡し舟が、柩《ひつぎ》のようにすべり動いていた。夜の闇《やみ》は濃くなっていった。河は青銅のようになった。岸の燈火が、河の漆黒な鎧《よろい》を輝《て》らして、暗い閃《ひら》めきを放たした。ガス燈の銅色の反映、電気燈の月色の反映、人家の窓ガラス越しの蝋燭《ろうそく》の血色の反映。そして河の囁《ささや》きが闇にいっぱいこもっていた。永遠の水音、単調なために海の音よりいっそう物悲しい音……。
クリストフは幾時間も、その死滅と倦怠《けんたい》との歌に聞きふけった。それと別れることがなかなかできなかった。それから、まん中が擦《す》りへってる赤い石段の険しい小路を、家のほうへ上っていった。身体も魂もがっかりしていた。壁にはめ込まれてる鉄の手摺《てすり》が、ずっと上のほう、闇に包まれてる教会堂の前の寂然たる広場にある街燈に、輝らされて光ってるのに、つかまりながら上っていった……。
人間はなんのために生きてるのか、彼にはもうわからなかった。今まで目撃してきた闘争を思い起こすようなときには、肉体に釘《くぎ》付けされた信仰をもってるこの人類を、苦々しげに驚嘆するのだった。相反した観念がつぎつぎに起こり、相反した行動がつぎつぎに起こっていた――民主主義と貴族主義、社会主義と個人主義、浪漫主義《ロマンチスム》と古典主義《クラシチスム》、進歩と伝統――そして永遠にそうだった。新しい各時代は、十年足らずのうちに燃えつきるにもかかわらず、自分だけが絶頂に達したものだと同じ意気込みで信じていて、石を投じては先人を打倒していた。そして騒ぎたて、叫びたて、権勢と光栄とを掌握し、こんどはみずから新来者の石の下に打ち倒されて、滅び失せてしまっていた。今やだれの番であるか?……
クリストフにとっては、音楽の製作ももう避難所ではなかった。それは間歇《かんけつ》的で乱雑で目的がなかった。書くことをか? だれのために書くのか? 人間のためにか? しかし彼は激しい人間|嫌《ぎら》いの危機にさしかかってい
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