と、音が答え合った……。クリストフは時のたつのを意識しなかった。顔をあげたときには、鐘の音は消え失せ、日は沈んでいた。彼は涙のために心が和らげられていた。精神が洗われたようになっていた。自分のうちに音楽の小さい流れが湧《わ》き出るのに耳を傾け、細い三日月が夕空にすべりゆくのをながめた。家へもどってくる人の足音に我に返った。そして自分の室へ上がってゆき、錠をおろして閉じこもり、音楽の泉が流れ出すままに任した。ブラウンは彼を食事に呼びに来て、扉《とびら》をたたき、開けようとした。クリストフは返辞をしなかった。ブラウンは心配して、扉の鍵穴からのぞいたが、クリストフが書き散らした楽譜の中で机の上に半ば横たわってるのを見て、ようやく安心した。
 数時間後に、クリストフは疲れはてて降りてきた。下の広間には、医師のブラウンが書物を読みながら彼を待ち焦がれていた。彼はブラウンを抱擁して、やって来たときからの自分の振る舞いを詫《わ》び、そして聞かれない先から、その数週間の劇的事変を語り始めた。彼がブラウンにそんな話をしたのはこのとき一回きりだった。ブラウンがよく理解したろうとは彼も信じかねた。なぜなら、彼は支離滅裂な話し方をしていたし、夜はもう更《ふ》けていて、ブラウンは好奇心をそそられながらも眠くてたまらながっていた。ついに――(二時が打った)――クリストフもそれに気づいた。二人は寝室に退く挨拶《あいさつ》をかわした。

 そのときから、クリストフの生活は立て直った。彼は一時の激昂状態の中にとどまってはいなかった。ふたたび自分の悲しみのほうへ心を向けた。しかしその悲しみは普通のものであって、生きるのを妨げるものではなかった。生き返ること、それが彼には必要だったのだ! 世にもっとも愛してるものを失い、悲しみに悶《もだ》え、自分のうちに死をになってはいたが、それでも彼には、豊富な強暴な生の力があって、それが悲嘆の言葉のうちにも爆発し、眼や口や身振りから輝き出てきた。しかしそういう力の中心には、侵蝕《しんしょく》的な蛆虫《うじむし》が住んでいた。クリストフはときどき絶望の発作にかかった。それは急激な疼痛《とうつう》だった。じっと落ち着いて、読書につとめたり、散歩したりしてるうちに、突然、オリヴィエの微笑が、その懶《ものう》げなやさしい顔が浮かび……心に刃《やいば》を刺される気がして……彼はよろめき、唸《うな》りながら胸を押えた。あるとき、彼はピアノについて、昔のような熱心さで、ベートーヴェンの一節をひいていた……とにわかに、ひくのをやめ、そこに倒れ伏して、肱掛椅子《ひじかけいす》の布団《ふとん》に顔を埋めながら、叫び泣いた。
「ああ、君……。」
 もっともいけないのは、「すでに生きた」という印象だった。彼はたえずその印象を受けた。同じ身振り、同じ言葉、同じ経験の不断の反覆を、いつも見出した。彼はすべてのことを知っていたし、すべてのことを予見した。昔のある面影を思い起こさせるような顔だちは、昔彼がその人から聞いたと同じ事柄を、言おうとしていた――(彼は前もってそれを確かに知り得た)――そして実際言っていた。同じような人々は、同じような経過をとって、同じ障害にぶつかり、同じく身を磨《す》りへらしていた。「恋のやり直しほど世に懶きものはない[#「恋のやり直しほど世に懶きものはない」に傍点]」ということが真であるとするならば、すべてのやり直しはさらにいかほど懶いことであろう! それは人の気を狂わせるようなものだった。――クリストフはそれを考えまいとつとめた。生きるためにはそれを考えないことが必要だったからであり、そして彼は生きたかったからである。それこそ、恥辱の念からまた憐憫《れんびん》の念から自己を知りたがらない痛ましい欺瞞《ぎまん》であり、底に隠れてる不可抗な生の欲求である。慰安がないことを知りながら、慰安を創《つく》り出す。生には存在理由がないことを知らせられながら、生きる理由をこしらえ出す。自分以外のだれにもかかわりのないときでさえ、自分は生きなければならないと思い込む。必要によっては、死者も自分に生きよと励ましてるのだと想像するだろう。そして実は、言ってもらいたいと思う言葉を死者に無理に押しつけてるのだということを、みずからよく知っているのである。なんたる惨めなことであろう!……
 クリストフはまた自分の道を進みだした。彼の足取りは昔の確実さを回復したかのようだった。心の扉《とびら》は苦悶《くもん》にたいしてまた閉められた。彼はその苦悶をけっして他人に語らなかった。彼自身も苦悶と差し向かいになることを避けた。彼は落ち着いてるように見えた。

 ほんとうの苦しみは、それがみずからこしらえた深い寝床の中に、平静な様子で横たわって、あたかも眠ってるがよ
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