を消し去ろうとつとめた。消え失せることだ……。苦悩は一人勝手なものである。愛していた人々もすべて、彼にとってはもう存在していなかった。ただ一人の者が存在してるのみだった、もう世にない一人の者が。幾週間もの間、彼はその一人を生き返らせようと熱中した。彼はその一人と話をし、その一人に手紙を書いた。
 ――わが魂である君よ、今日は君の手紙が来ない。君はどこにいるのか。もどって来てくれ、もどって来てくれ、僕に言葉をかけてくれ、僕に手紙をくれたまえ!……
 しかし夜になっても、いくら努力をしても、彼はその人を夢にみることができなかった。およそ亡き人々は、悲嘆されてる間は夢に現われて来ることが少ない。あとになって忘却されるおりにふたたび現われてくるものである。
 そのうちに外部の生活が、墓のごときクリストフの魂の中にしだいにはいり込んできた。彼は家の中の種々の物音を繰り返し耳にするようになり、みずから知らずしてそれに興味を覚え始めた。何時ごろ、そして日に幾度、そして客の種類に応じてどういうふうに、扉《とびら》が開いたり閉まったりするかを、彼は知った。ブラウンの足音を、彼は覚えた。ブラウンが往診から帰って来、玄関に立ち止まって、いつも同じ癖の細心なやり方で、帽子や外套《がいとう》をかけてる様子を、彼は想像に浮かべた。そしてそれらの聞き馴《な》れた物音の一つが、予想どおりの段取で聞こえないおりには、彼は我にもなくその変化の理由を考えた。食卓では、機械的に会話に耳をかし始めた。ブラウンがほとんどいつも一人で話してることに気づいた。細君は短い返辞をするきりだった。しかしブラウンは相手がなくとも困りはしなかった。人のよい饒舌《じょうぜつ》さで、自分の訪問や聞き込んだ噂《うわさ》などを話した。クリストフはしゃべってるブラウンの顔をながめることがあった。ブラウンはそれにすっかりうれしくなって、彼の興味をひこうとくふうした。
 クリストフはふたたび生きようと努めた……。がなんという疲労だったろう! いかにも老い込んだ心地がし、世界と同様に年老いた心地がしていた……。朝起きると、鏡を見ると、自分の身体や身振りや馬鹿げた格好に飽き飽きした。起き上がったり着物をつけたりするのは、なんのためなのか?……仕事をするのは非常に骨が折れた。胸がむかつくほどだった。すべて空《くう》に帰する以上は、創作したってなんの役にたとう? 彼は音楽にももう堪えがたくなっていた。人は芸術を――(またその他のものをも)――ただ不幸によってのみほんとうに判じ得るのである。不幸こそ試金石である。幾世紀をも通り越す人々、死よりもさらに強い人々は、ただ不幸のうちにおいてのみ知らるる。不幸に拮抗《きっこう》し得る者はきわめて少ない。自分の信頼してる魂が――(愛する芸術家や畢世《ひっせい》の友が)――いかに凡庸であるかに人は驚かされる。――だれが残存し得るか? 世界の美も苦悩の指でたたかれると、いかに空《うつ》ろな音をたてることぞ!
 しかしやがては苦悩も疲れ、その手は麻痺《まひ》してくる。クリストフの神経はゆるんできた。彼はたえず眠りつづけた。その睡眠の飢えはいつまでも満たされそうにないかと思われた。
 ついにある夜彼は非常に深い眠りに陥って、翌日の午後になってようやく眼を覚ました。家は寂然《じゃくねん》としていた。ブラウンは夫妻とも外出していた。窓が開いていて、輝かしい空気が笑っていた。クリストフは堪えがたい重荷をおろした心地だった。立ち上がって庭に降りた。修道院めいた高い壁に囲まれてる狭い方形の庭だった。芝生や平凡な花の植わってる桝《ます》形の間に砂の小径がついていた。葡萄蔓《ぶどうづる》や薔薇《ばら》が巻き込まれてる青葉棚が一つあった。一筋の細い水の流れが人造岩の洞穴《ほらあな》から流れ出していた。壁に接してる一本のアカシアがその香ばしい枝を隣りの庭の上にたれていた。その方面に赤い砂岩でできた教会堂の古い塔がそびえていた。午後の四時だった。庭はもう影に包まれていた。日の光はまだ樹木の梢《こずえ》と赤い塔とに当たっていた。クリストフは青葉棚の下にすわり、背を壁のほうに向け、頭を後ろにそらして、葡萄蔓と薔薇とのからまってる間から、清澄な空をながめた。悪夢から覚めたような気持だった。そよともしない沈黙がこめていた。頭の上には一蔓の薔薇が懶《ものう》げにたれ下がっていた。突然、もっとも美しい一輪の薔薇が散り去った。雪白の花弁《かべん》が空中に散らされた。美しい無垢《むく》の生命が死んでゆくのに似ていた。いかにも単純に……! クリストフの精神には、それが悲痛なほどやさしい意義を帯びて映じた。彼は感きわまって、両手に顔を隠しながら咽《むせ》び泣いた……。
 塔の鐘が鳴った。一つの教会堂から他の教会堂へ
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