なかった。すなわち、内心のおののきを盛りこんだ芸術を、内生活の秘奥を託した音楽を、娯楽用として――あるいはむしろ、退屈払いもしくは新しい退屈事として――社交的夜会に、軽薄才士や疲れきった知識者などの公衆に、堤供しなければならなかった。
クリストフは真の聴衆を求めていた。実生活の情緒と同じように芸術の情緒に信頼し、純潔な魂でそれを感ずる聴衆を、求めていた。そして彼は、約束されたる新しい世界――民衆に、それとなく心ひかされた。彼に深い生活を啓示してくれたり、あるいは、彼に音楽の神聖なパンを分かってくれた、幼年時代の思い出が、ゴットフリートや卑賤《ひせん》な人々の思い出が、いつしか彼をして、自分の真の友人らは民衆の方面にあると信ぜしめた。純朴《じゅんぼく》な他の多くの青年と同様に彼も、なんと定義していいかわからないような、通俗芸術だの民衆の音楽会や芝居などという大計画を、考えめぐらしていた。彼は芸術革新の可能を革命によって得らるるものと期待していて、自分にとってはそれが社会運動の唯一の興味であると主張していた。しかし実は、身代わりの口実をもち出してるのだった。彼はあまりに生き生きしていたので、当時もっとも生き上がってた実行運動の光景にひかされ吸いつけられたのだった。
その光景のうちでもっとも彼の興味をひくことの少なかったものは、有産階級の理論家どもであった。それらの樹木が実《みの》らす果実はたいてい干乾《ひから》びていた。生命の液汁はことごとく観念となって凝結していた。クリストフはそれらの観念の間に見分けがつかなかった。観念が体系的に凍りついてしまうときには、もう自分の観念にたいしてさえ、愛好を覚えなかった。彼はおとなしい軽蔑《けいべつ》の念をもって、力の理論家たちにも弱さの理論家たちにも共に加わらなかった。あらゆる芝居の中において、もっとも損な役目は理屈家のそれである。観客は理屈家よりも、同情をひく人物をばかりでなく敵《かたき》役の人物をさえ好むものである。この点においてはクリストフも観客の一人だった。社会問題の理屈家らは、彼には嫌味《いやみ》なものに思われた。しかし彼は他人を観察して面白がっていた。信じてる人々や信じたがってる人々、だまされてる人々やだまされたがってる人々、なおまた、肉食獣のような仕事をしてるりっぱな海賊ども、毛を刈らるるためにできてる羊ども、など
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