れらにいかなる意義があったのか?」……生の無意義さ。死の無意義さ。一人の者が消し去られ、一族の者全部が消滅して、そのあとにはなんらの痕跡《こんせき》も残らない。嫌悪《けんお》すべきか滑稽《こっけい》視すべきかもわからない。害悪な笑いが、憎悪と絶望との笑いが、クリストフを襲ってきた。かかる苦悶《くもん》の無力さとかかる無力さの苦悶とに、彼は打ち負けてしまった。彼の心は紛砕された……。
医師ブラウンが往診に出かける足音のほか、家の中にはなんの音も聞こえなかった。クリストフは時間の観念を失ってしまった。そこへアンナが現われた。盆に食事をもってきていた。彼はただ彼女をながめたきりで、礼を言うための身振りもしなければ唇《くちびる》さえ動かさなかった。しかし何にも見てないような彼のすわった眼の中には、その若い女の面影が写真のようにはっきりと刻み込まれた。ずっとあとになって彼女をもっとよく知ったときも、やはり彼はそういうふうにして彼女を見たのだった。新しい種々の面影もその第一の記憶を消すにいたらなかったのである。彼女は重々しい束髪に結《ゆわ》えた濃い髪をもち、額は出ており、頬《ほお》は広く、鼻は短くまっすぐで、眼はしつっこく俯向《うつむ》きがちであって、もし他人の眼に出会うと、温情のないあまり打ち解けない表情でそらされ、唇はやや厚くてきっと結ばれており、その様子が意固地《いこじ》でほとんど頑固《がんこ》とも言えるほどだった。背が高く、頑健でいい姿らしかったが、きちっと着物の中に堅くなって、動作が硬《こわ》ばっていた。彼女は音もたてず口も利かずに歩いてき、寝台のそばのテーブルに盆を置き、腕を身体にくっつけ俯向きがちにして出て行った。彼女のそういう奇体なやや滑稽《こっけい》な出現を、クリストフは別に驚こうともしなかった。彼は食事には手もつけずに、なお無言のうちに苦しみつづけた。
昼間は過ぎた。晩になった。ふたたびアンナが新しい料理を運んで来た。朝もって来た食事に手もつけてないのを見たが、なんとも言わずにそれを下げていった。病人に向かってすべて女が本能的に言いかけるやさしい言葉を、彼女は一つも発しなかった。彼女にとってはクリストフは存在していないかのようだった。あるいは、彼女自身もほとんど存在していないかのようだった。クリストフもこんどはじれてきて、彼女の無器用な取り澄ました動作を
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