動きもできないだろう、というような気がした。彼はなお一日歩き通した。もうパンを買うにも一スーの金もなかった。そのうえ彼は村を通るのを避けた。理性を離れた妙な感情から、死にたがりながらも捕縛を恐れていた。彼の身体は狩り立てられて逃げてる動物のようだった。肉体上の悲惨なことども、疲労、飢餓、疲弊した一身から起こってくる人知れぬ恐怖などは、一時精神上の困苦を打ち消していた。その精神上の困苦とともに閉じこもってそれをかめしめることのできる隠れ場を見出すこと、そればかりを彼は求めていた。
 彼は国境を越えた。遠くに町が見えた。細長い鐘楼の塔や工場の煙筒などがそびえていて、それらの煙筒から立つ長い煙は、雨の中を灰色の空中に、黒い川のようになって皆同じ方向へ単調に流れていた。彼はもう倒れそうになっていた。そのとき彼は、この町に一人の知人がいることを思い出した。同郷出身の医者で、エーリッヒ・ブラウンとかいう名前で、前年クリストフがある成功を博したとき、旧誼《きゅうぎ》を思い起こしてくれとて手紙をよこしたのだった。ブラウンがいかに凡庸な者であろうとも、また自分の生活にいかに無関係な者であろうとも、クリストフは傷ついた獣のような本能から一生懸命になって、自分にとってまったくの他人ではない者のもとへ行こうとした。

 一面の煙と雨との下を彼は、その薄暗い赤い町へはいった。何にも眼に止めず、道を尋ね、迷ったり引き返したりして、やたらにうろつきながら、町の中を歩いていった。もう力も尽きはてていた。緊張した意志を最後にも一度引きしめて、段々になってる険しい小路を上らなければならなかった。薄暗い教会堂のまわりに人家が密集してる狭い丘の頂まで、その路は上っていた。赤い石でできてる段が六十ばかりあって、三つか六つずつ一団になっていた。その一|団《かたま》りの石段の間には、ごく狭い平地があって、人家の入り口になっていた。その平地ごとにクリストフは、よろめきながら息をついた。上のほうでは、塔の上に烏《からす》が飛び回っていた。
 ついに彼は、ある戸口に捜してる名前を読み取った。彼は戸をたたいた。――小路はまっ暗だった。彼は疲れきって眼を閉じた。心のうちも闇夜《やみよ》だった……。幾世紀も過ぎた……。

 狭い戸口が少し開いた。敷居の上に一人の女が現われた。その顔は闇に包まれていた。しかし長い廊下の向こう
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