「ジュールナル」に傍点]の友人らの力をかりて世に吹聴《ふいちょう》させようと、彼女に言い出した。しかし彼女は、人に讃《ほ》められるのはうれしくはあるが、そのための運動はしないでほしいと願った。競争したり苦心したり他人の嫉妬《しっと》心を招いたりすることを、彼女は欲しなかった。平和のままでいたかった。人の口にのぼらなくとも、それがかえって結構だった。彼女には羨望《せんぼう》の念がなかった。他の熟練家らの技能に接するとまっ先に恍惚《こうこつ》となった。また野心も欲望もなかった。あまりに精神上の怠《なま》け者だった。何か直接のはっきりした事に取りかかっていないときには、まったく何にもしていなかった。夢想さえしていなかった。夜寝床に入ってさえそうだった。眠っているか、さもなくば何にも考えていなかった。老嬢で終わりはすまいかと恐れてる世の娘たちの生活を毒する、結婚についてのあの病的な妄想《もうそう》をも、彼女はもっていなかった。いい夫をもちたくはないかと聞かれると、彼女は言った。
「まあ! 定期収入の五万フランとでもなぜおっしゃらないんですか。人のもってるものは取り上げてやるに限ります。向こうから差し出さるればなお結構ですわ。さもなければ、無しで済ますだけのことです。お菓子がないからと言って、よいパンをよくないとするわけにはゆきません。まして長い間堅いパンばかり食べてきましたおりにはねえ!」
「それにまた、」と母は言った、「毎日パンが食べられないような人もたくさんありますよ。」
セシルが男を信じないのにはいろいろ理由があった。数年前に死んだ父親は、気の弱い怠惰者《なまけもの》だった。妻や家族の者たちにたいへん迷惑をかけたのだった。セシルにはまた一人の兄があった。それが悪いほうへそれてしまっていた。どうなってるかだれにもよくわからなかった。ごくまれにやって来ては金の無心をした。皆は彼を恐《こわ》がり、恥ずかしいと思い、いつどんな噂《うわさ》を聞くかわからないとびくびくしていた。それでもなお彼を愛していた。クリストフは一度彼に出会った。そのときクリストフはセシルのところにいた。呼鈴を鳴らす者があった。母親が扉《とびら》を聞けに行った。隣の室で激しい声の会話が起こった。セシルは心配そうな様子をしていたが、こんどは自分も出て行って、クリストフを一人置きざりにした。言い争いがつづいて、聞き知らぬ声は威嚇的になっていった。クリストフは仲裁してやらなければならないと思った。そして扉を聞いた。こちらに背を向けてる多少無格好な若い男の姿が、ちらと見えただけだった。とっさにセシルはクリストフのほうへやって来て、元の室へもどってくれと頼んだ。彼女も彼といっしょにもどって来た。二人は黙って腰をおろした。隣の室では、その客がなおしばらく怒鳴っていたが、やがて扉をがたりと音さして出て行った。するとセシルは溜息《ためいき》をついてクリストフに言った。
「あれは……私の兄です。」
クリストフは了解した。
「ああ……私にも覚えがあります……。」と彼は言った。「私にもそんな兄弟が一人あるんです……。」
セシルはやさしい同情を寄せて、彼の手をとった。
「あなたも?」
「ええ。」と彼は言った。「あんなのは家庭の喜びですね。」
セシルは笑った。そして二人は話を変えた。がまったく、家庭の喜びは少しも彼女の心を喜ばせなかったし、結婚の考えは少しも彼女の心をひかなかった。男というものはあまり価値のあるものではなかった。彼女は独立の生活のほうがずっとよいと考えていた。現に母親も、独立生活の自由を長い間待ち望んできたのだった。セシルもその自由を失いたくなかった。彼女が楽しみにして胸に描いてる唯一の夢想は、いつか、あとになって、それもいつのことだかわからないが、田舎《いなか》で暮らすということだった。しかし彼女は、その生活の詳細を想像するだけの労もとらなかった。そんな不確かな事柄に思いをはせるのは大儀だった。それよりは眠るほうがよかった――もしくは仕事をするほうがよかった……。
彼女はその空中楼閣が実現するまでは、夏の間パリーの近郊に小さな家を借りて、それを母と二人きりで占領していた。汽車で二十分ほどの所だった。家は停車場からかなり遠くて、田んぼと言われてる荒蕪《こうぶ》地のまん中に孤立していた。セシルはしばしば夜ふけにもどって来た。しかし少しも恐《こわ》くなかった。危険が起ころうとは思っていなかった。ピストルを一つもっていたが、いつも家に置き忘れていた。そのうえ、ろくにその使い方も知らなかった。
クリストフはその訪問中、彼女に演奏さした。楽曲にたいする彼女の洞察《どうさつ》力を見るとうれしかった。一言いってやったばかりで彼女がその表現すべき感情にぴたりとはまるときには、ことに
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