エがはいって来た。彼の挙動は落ち着いていた。新たな晴朗さが彼の青い眼に輝いていた。彼は子供に微笑《ほほえ》みかけ、セシルやアルノー夫人と握手をし、そして静かに話し始めた。人々はやさしい驚きの念で彼を見守った。彼はもはや以前と同じではなかった。あたかも毛虫がみずから紡いだ巣の中にこもるように、苦悩といっしょに孤独の中に閉じこもっていて、辛《つら》い努力のあとに、自分の心痛を脱穀《ぬけがら》のように振るい落とすことができたのだった。もう嫌《いや》になって犠牲にするしかないと思っていた自分の生活をすっかりささげつくすべき、りっぱな主旨をどうして彼が見出すようになったかは、後に物語ることとしよう。そして、自分の生活をそのために投げ出そうと心の中で誓ってからは、普通の例にもれず、彼の生活はふたたび輝いてきたのだった。親しい彼らは彼をうちながめた。彼らはどういうことが起こったかを少しも知らなかった。それを彼に尋ねかねた。けれども、彼がすでに解放されて、何事についても、まただれにたいしても、愛惜や怨恨《えんこん》をもはやいだいていないということを、彼らは感じたのだった。
クリストフは立ち上がって、ピアノのところへ行き、オリヴィエに言った。
「ブラームスの旋律《メロディー》を一つ歌ってきかせようか。」
「ブラームスの?」とオリヴィエは言った。「君は今では旧敵の作をもひくのか。」
「今日は諸聖人祭だ。」とクリストフは言った。「万人にたいする赦免の日だ。」
彼は子供の眼を覚《さ》まさないように小声で、シュワーベンの古い民謡を数句歌った。
[#ここから3字下げ]
お前が愛してくれた時のこと
わたしは有難《ありがた》がってるよ、
他処《よそ》ではもっとお前に幸《さち》あれと
わたしは祈っておりますよ……
[#ここで字下げ終わり]
「クリストフ!」とオリヴィエは言った。
クリストフは彼を胸に抱きしめた。
「さあ君、」と彼は言った、「僕たちは運がいいんだ。」
彼らは四人で、眠ってる子供のそばにすわっていた。少しも口をきかなかった。そしてどういうことを考えてるかと尋ねる人があったならば――彼らはみずから卑下の色を顔に浮かべてただこう答えたであろう[#「彼らはみずから卑下の色を顔に浮かべてただこう答えたであろう」に傍点]。
「愛[#「愛」に傍点]。」
底本:「ジャン・クリストフ(三)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年8月18日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
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