しながらグラチアの手をとった。そして突然二人とも話をやめた。グラチアはクリストフが自分を愛してることに気づいたし、クリストフもまたそれに気づいた……。
クリストフは気にもつかなかったが、グラチアは一時クリストフを愛したことがあった。そして今では、クリストフはグラチアを愛していた。グラチアはもう穏やかな友情しかいだいていなかった。彼女は他の男を愛していた。世間にしばしば起こるように、彼らの生活の二つの時計の一方が他方より進んでいるというだけで、彼らの生活は両方とも一変されてしまったのである……。
グラチアは手を引っ込めた。クリストフはそれを引き止めなかった。そして二人はそのまま、しばらくは言葉もなく当惑していた。
そしてグラチアは言った。
「ではこれで……。」
クリストフはくり返し訴えた。
「これでお別れですか。」
「このままのほうがよろしいと思いますわ。」
「お発《た》ちになる前にもうお目にかかれないでしょうか。」
「ええ。」と彼女は言った。
「いつまたお目にかかれるでしょう?」
彼女は悲しげに疑いの身振りをした。
「それでは何になるでしょう、」とクリストフは言った、「ふたたびお会いしたのも何になるでしょう?」
しかし彼女のとがめる眼つきを見て、彼はすぐに言った。
「いえ、ごめんください。私がいけないんです。」
「私はこれからも始終あなたのことを考えておりますわ。」と彼女は言った。
「ああ私は、」と彼は言った、「あなたのことを考えることさえできません。私はあなたの生活を少しも知らないんです。」
平然と彼女は、自分の日常生活を、どんなふうに日々を暮らしてるかを、手短かに話してきかした。自分と夫とのことを、やさしい美しい笑顔で話してきかした。
「あああなたは、」と彼は妬《ねた》ましげに言った、「御主人を愛していられますね。」
「ええ。」と彼女は言った。
彼は立ち上がった。
「さようなら。」
彼女も立ち上がった。そのとき初めて彼は、彼女が妊娠してることを認めた。そのために、嫌悪《けんお》と愛情と嫉妬《しっと》と熱い憐憫《れんびん》との名状しがたい印象を心に受けた。彼女はその小さな客間の扉口《とぐち》まで送ってきた。彼は扉口で向き遜り、彼女の手のほうへ身をかがめ、それに長く唇《くちびる》をあてた。彼女は眼を半ばつぶって動かなかった。ついに彼は身を起こした。そして彼女の顔を見ないで、急いで出て行った。
[#ここから3字下げ]
……その時、いかなるものなるやと尋ぬる者
ありしならば、予はみずから卑下《ひげ》の色を面《おもて》に
浮かべつつ、ただ愛[#「愛」に傍点]とのみ答えしならん……
[#ここで字下げ終わり]
諸聖人祭の日。戸外には、灰色の光と寒い風。クリストフはセシルの家にいた。セシルは子供の揺籠《ゆりかご》のそばにすわっていた。通りがかりに立ち寄ったアルノー夫人が、子供の上に身をかがめてのぞき込んでいた。クリストフは夢想にふけっていた。彼は幸福を取り逃がしたような気がしていた。しかし愚痴をこぼそうとは思わなかった。幸福が存在してることを知っていた。……太陽よ、御身を愛するためには御身を見るの必要はない! 私が影の中で打ち震えてるこの冬の長い日々の間、私の心は御身でいっぱいになっている。私の愛は私を暖かくしてくれる。私は御身がそこにいることを知っている……。
セシルも夢想にふけっていた。彼女はつくづくと子供を見守って、ついにその子供を自分の子だと思うようになっていた。ああ、生活の創造的な想像たる夢想の祝福されたる力よ! 生活……生活とはなんであるか? それは冷たい理性やわれわれの眼が見るところのものではない。生活とはわれわれが夢想するところのものである。生活の基準は愛である。
クリストフはセシルをながめた。眼の大きな田舎《いなか》めいたその顔は、母性的な――真の母親よりもいっそう母親めいた――本能の光に輝いていた。またクリストフは、アルノー夫人の疲れたやさしい顔をながめた。そしてそこに、興深い書物の中で見るように、人妻生活の隠れたる楽しみや苦しみを読み取った。人妻の生活は往々にして、人には気づかれないが、悲しみや喜びにおいては、ジュリエットやイゾルデの恋と同じほど豊富なものである。しかも宗教的な偉大さをより多くそなえている……。
[#ここから3字下げ]
人間的にして神的なるものの伴侶《はんりょ》……
[#ここで字下げ終わり]
そして、既婚および未婚の女の幸福もしくは不幸をなすものは、信仰の有無ではないと同様に、子供の有無でもないと、クリストフは考えた。幸福というものは、魂の香《かお》りであり、歌う心の諧調《かいちょう》である。そして魂の音楽のうちのもっとも美しいものは、温情にほかならない。
オリヴィ
前へ
次へ
全85ページ中84ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング