。ときどき風がさっとその片影を吹き送って来た。それがどこから出て来るかはわからないが、それに包み込まれて、顔が真赤《まっか》になる心地がし、恐《こわ》さとうれしさとで息もつけなかった。なんのことだか訳がわからなかった。それにまた、それは来た時と同じようにふっと消えてしまうのだった。もう何にも聞こえなかった。かすかなそよぎ、それとわからないほどの余韻が、青い空気中にうっすり残ってるのみだった。けれど、かなた山の向こうにそれがあること、そこへ行かなければならないこと、できるだけ早く行かなければならないこと、それだけはわかっていた。そこに幸福があるのだった。ああそこまで行けさえしたら!……
そこへ達するのを待ちながら彼女は、やがて見出そうとするものにたいして、不思議な想像をめぐらしていた。彼女の少女としての知力にとっての重大事は、それを推察するということだったのである。彼女にはシモーヌ・アダンという同年配の友があって、この重大な問題についていっしょに話し合った。自分の知識や、十二年間の経験や、聞きかじった話や、ひそかにぬすみ読んだ事柄などを、たがいにもち寄った。そして二人の少女は、自分たちの未来を隠してる古壁の石にしがみつき、爪先《つまさき》で伸び上がって、その向こうを見ようとした。しかしどんなことをしても、壁の割れ目からいくらのぞこうとしても、まったく何にも見てとれなかった。彼女らの性質は、無邪気と詩的な放縦《ほうしょう》とパリー的な皮肉との混和したものだった。みずから知らずに大袈裟《おおげさ》なことを口にしながら、ごく単純な事柄で自分の世界を組み立てていた。ジャックリーヌは、だれからもとがめられずに、方々を捜し回り、父のあらゆる書物をこそこそのぞいてみた。が幸いにも彼女は、ごく清らかな少女の潔白さと本能とによって、悪いものに出会っても汚されなかった。多少露骨な場面や言葉に接しただけで、もう厭《いや》になってしまった。すぐさまその書物を手放して、卑しい連中のまん中を通りすぎた。あたかも、きたない水たまりの中にはいってびっくりしてる――しかも泥水《どろみず》のはね返りを少しも受けない――猫《ねこ》のようなものだった。
彼女は小説へは心ひかれなかった。小説はあまりにはっきりしていてあまりに干乾《ひから》びていた。感動と希望とで彼女の胸を波打たせるものは、詩人の書物だった――言うまでもなく恋愛の詩集だった。それは少女の心にやや近かった。事物を見て取りはしないで、欲望と愛惜の三稜鏡《プリズム》を通して想像していた。ちょうど彼女のように、古壁の割れ目からのぞいてるらしかった。しかし実は多くのことを知っており、およそ知るべきことはみな知っているのであって、ただそれをごくやさしい神秘的な言葉で包んでるのだった。それで、非常に注意してその抱衣を解きさえすれば、見出せる……見出せる……はずだった。が彼女は何にも見出さなかった。けれどいつも見出しかけてはいた……。
二人の好奇な少女は少しも飽きなかった。かすかにおののきながら低い声で、アルフレッド・ド・ミュッセーの詩句やシェリー・プリュドンムの詩句を繰り返した。その詩の中に敗徳の深淵《しんえん》が想像された。彼女らはそれを写し取り、その一節の中の隠れた意味を尋ね合った。時とするとなんの意味もないことがあった。そしてこの潔白な厚顔な十三歳の小娘たちは、恋愛について何にも知らないくせに、半ば冗談に半ば真面目《まじめ》に、恋と快楽とを論じ合った。そして教室では、教師――ごくやさしい丁寧な年とった小父《おじ》さん――の温情に満ちた眼をぬすんで、つぎのような詩句を、その教師がある日見つけて息がつまるほどびっくりした詩句を、帳面に書き散らした。
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おう吾《われ》をして、吾《われ》をして、汝《なんじ》をかき抱《いだ》かしめよ、
汝の接吻《せっぷん》のうちに、物狂わしき恋を吸わしめよ、
一滴また一滴と、幾久しく!……
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彼女たちの通ってる学校は、ごくはやっていた。教師はみな大学の先生だった。彼女たちはそこに感傷的な憧憬《どうけい》心の使い道を見出した。少女らのほとんどすべては、自分の教師に恋していた。教師が若くてさほど醜くなければ、彼女らの心を奪うに十分だった。彼女らは先生からよく思われようとして、天使のようになって勉強していた。試験のときに、先生から悪い点をもらうと涙を流した。先生から讃《ほ》められると、赤くなったり蒼《あお》くなったりして、感謝に満ちた婀娜《あだ》っぽい流し目を注いだ。先生から一人別に呼ばれて、助言されたり称賛されたりすると、それこそ有頂天だった。彼女らの気に入るためには秀才たるの必要はなかった。体操のときに、その教師から両腕に抱かれてぶら
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