彼女は自分を害する絆《きずな》を断って、当然なことをしたまでである。
「彼女が悪いのではない。」と彼は考えた。「私が悪いのだ。私は誤った愛し方をした。私は深く彼女を愛していた。けれども、彼女に私を愛させることができなかった以上は、私は彼女をほんとうに愛する道を知らなかったのだ。」
 かくて彼は自分をとがめた。おそらくそれが正当だったろう。しかし過去のことを云々《うんぬん》してもそれは大して役にたちはしない。いくら云々したところで、繰り返されるべきことは繰り返される。そして生きることをできなくなす。強者は、人からなされた善を忘れる――のみならずまた、悲しくも、自分のなした害を自分の力で贖《あがな》い得ないと知れば、それをもただちに忘れてしまう。しかし人は、理性によって強者になるのではなく、熱情によって強者になるのである。愛と熱情とはたがいに縁遠い。いっしょに連れだつことはめったにない。オリヴィエは愛していた。彼が強いのは自分自身に反する方面にばかりだった。一度受動的な状態に陥ると、あらゆる病苦にとらえられた。流行感冒、気管支炎、肺炎などが彼に襲いかかった。その夏の大半は病気だった。クリストフはアルノー夫人に助けられて、手厚い看護をした。そして二人は病気を阻止することができた。しかし精神上の病苦にたいしては、二人はまったく無力だった。彼の絶えざる悲しみから受ける有害な疲労と、その悲しみのもとから逃げ出したい欲求とを、二人はしだいに感じだした。
 不幸は、不思議な寂寞《せきばく》のうちに当の人を陥《おとしい》れるものである。一般に人は不幸を本能的に嫌悪《けんお》する。あたかも不幸が伝染しはすまいかと恐れてるかのようである。かりに一歩譲っても、不幸は人に嫌気《いやけ》を起こさせる。人は不幸から逃げ出してしまう。苦しむのを許してやる者はきわめて少ない。ヨブの友人らの古い話といつも同じである。テマン人《びと》ユリパズは、ヨブの短慮を責める。シュヒ人《びと》ビルダデは、ヨブの不幸はその罪の罰であると主張する。ナアマ人《びと》ゾパルは、ヨブを僭越《せんえつ》であるとする。「時に[#「時に」に傍点]、ラムの[#「ラムの」に傍点]族《やから》ブジ人バラケルの子エリフ[#「ブジ人バラケルの子エリフ」に傍点]、大なる怒りを[#「大なる怒りを」に傍点]発《おこ》せり[#「せり」に傍点]、ヨブ神の前におのれを正しとするによりて[#「ヨブ神の前におのれを正しとするによりて」に傍点]、彼はヨブに向かいて怒りを発せり[#「彼はヨブに向かいて怒りを発せり」に傍点]。」――真に悲しめる者は至って少ない。悲しんでると言われる者は多いけれど、ほんとうに悲しみに沈んでる者はあまりない。がオリヴィエはそのまれな一人だった。ある人間|嫌《ぎら》いの男が言ったように、「彼は虐待されるのを喜んでるがようである。こういう不幸な人間の役を演じたとてなんの利益もない。人から忌みきらわれるばかりである。」
 オリヴィエは自分の感じてることを、だれにも、もっとも親密な人々にさえ、話すことができなかった。それをうるさく思われることに気づいていた。親愛なるクリストフでさえも、そういう執拗《しつよう》なうるさい苦悶《くもん》には我慢しかねた。彼はそれを治癒《ちゆ》してやるには自分があまり拙劣だと知っていた。実を言えば、彼は寛大な心をもっており、またみずから苦しい試練に鍛えられてきたのではあるが、友の苦しみをほんとうに感ずることはできなかった。人間の性質はそれほど偏頗《へんぱ》なものである。善良で、情け深くて、怜悧《れいり》であって、多くの死を悲しんできていながら、友の歯痛の苦しみをも感じられないことがある。もしその病苦が長引くおりには、病人は大袈裟《おおげさ》な苦情を言うものだと考えたがる。ことにその病苦が魂の底に潜んでいて眼に見えない場合には、なおさらのことである。その病苦の原因でない者は、自分にほとんど関係のない一つの感情のために、相手の男がそんなにも苦しんでるのを、煩わしいことだと考える。そしてついには、自分の良心を安めるためにみずから言う。
「自分に何ができよう? あらゆる理屈もなんの役にもたたない。」
 あらゆる理屈も……というのはほんとうである。人が善をなし得るのは、苦しんでる人を愛し、その人をやたらに愛し、その人を説服しようとはせず、その人を回復さしてやろうとはせず、ただ愛し憐《あわ》れむことによってのみである。愛のみが愛の痛手にたいする唯一の慰安である。しかし愛というものは、もっともよく愛する人たちのうちにおいても無尽蔵ではない。彼らはある限られた分量の愛をしかもってはいない。見出し得る限りのやさしい言葉を一度言いもしくは書いてしまったときには、自分の義務を果たしてしまったとみ
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