った。その後のことは耳にもはいらなかった。眼の前が何もかも混乱した。彼女は叫び出したかった。
「いいえ、いいえ、私に子供をください……。」
 クリストフは話しつづけていた。彼女にはその言葉も聞こえなかった。けれど彼女は我を押えようと努力した。セシルがそれとなく打ち明けた事柄に思いをはせた。彼女は考えた。
「私によりもあの女にはいっそう子供が必要なのだ。私には親愛なアルノーもあるし……それから、いろんなものもあるし……それから、私のほうが年もとっている……。」
 そして彼女は微笑《ほほえ》んで言った。
「それがよろしいでしょう。」
 しかし、暖炉の炎は消えていたし、顔の赧《あか》みも消えていた。そのやさしい疲れた顔にはもはや、いつものあきらめきった温良さの表情があるばかりだった。

「愛する者に裏切られた。」
 そういう考えにオリヴィエは圧倒されていた。クリストフは愛情のあまり、彼をきびしく鞭撻《べんたつ》してやったが、その甲斐《かい》もなかった。
「しかたがないさ。」とクリストフは言った。「味方から裏切られることなんかは、病気や貧困や馬鹿どもとの戦いと同じように、ごくありふれた試練なんだ。それにたいして武装していなければいけない。それに抵抗できないなどとは、憐《あわ》れな人間にすぎない。」
「ああ、僕はまったく憐れな人間なんだ。それを誇りとはしていないが……。まったくだ、情愛が必要で、それをなくすれば死ぬよりほかはない、憐れな人間なんだ。」
「君の生活はまだ終わってはしない。他に愛すべき者がいくらもあるよ。」
「僕はもうだれをも信じない。友もない。」
「おい、オリヴィエ!」
「いや許してくれ。僕は君を疑ってやしない。時とすると、すべてを……自分をも……疑うようなことはあっても……。けれど、君は強者だし、だれをも必要としないし、この僕がいなくても済ましてゆける。」
「彼女のほうが僕よりもいっそうよく、君がいなくても済ましてゆけるさ。」
「君は残酷だね、クリストフ。」
「ねえ君、僕は君をいじめてるよ。しかしそれは君を発奮させるためなんだ。なんということだ! 自分を愛してくれる人たちを犠牲にして、自分をあざけってるだれかに生命をささげるなどとは、実際恥ずべきことだ。」
「僕を愛してくれる人たちも僕に何になろう! 僕は彼女をこそ愛してるのだ。」
「働きたまえ。昔君が興味をもってた事柄は……。」
「……もう僕には面白くないのだ。僕は疲れてる。人生の外に出てしまったような気がする。何もかも僕には、遠く……遠く思われる。いくら見ても、もう何にもわからない……。時計のような機械的な仕事を、無味乾燥な務めを、新聞紙的な議論を、快楽のつまらない追求を、毎日あかずに繰り返してる人々、ある内閣や書物や役者などに夢中になって賛成したり反対したりしてる人々が、世の中にあるかと考えると……。ああ、僕はひどく老い込んだ気がする。僕はもうだれにたいしても、憎しみも恨みも感じない。何もかも嫌《いや》だ。何にもないという気がする……。物を書けというのか。なんのために書くのだ? だれが理解してくれよう? 僕がこれまで書いていたのも、ただ一人の者のためにだった。僕がこれまで何かであったのは、すべてその一人の者のためにだった……。もう何にもない。僕は疲れてるのだ、クリストフ、疲れてるのだ。僕は眠りたい。」
「じゃあ眠りたまえ。僕が番をしてあげよう。」
 しかしオリヴィエはなかなか眠れなかった。ああ、苦しんでる者が、数か月間、苦悶《くもん》が消えて一身が新しくなるまで、まったく別人となるまで、もし眠ることができさえするならば! しかし人はそういう能力をもつことはできない。またそれを望みもしない。苦しみを奪われることこそもっとも悪い苦しみなのである。オリヴィエは自分の熱で身を養ってる熱病患者に似ていた。ほんとうの熱に犯されていて、一定の時間に、ことに夕方、日の光が消えてゆくころから、その発作が現われてきた。その他の時は、しきりに傷心し、恋愛に中毒し、追憶に悩まされ、あたかも一口の食物を嚥下《えんか》し得ないで反嚼《はんしゃく》してる白痴のように、同じ考えばかり繰り返し、頭脳の力はすべてただ一つの固定観念に吸い取られていた。
 彼は、クリストフのように、自分の不幸を呪《のろ》い、不幸の原因たる彼女を真正面からののしる、などという術《すべ》を心得なかった。彼はクリストフよりいっそう明知で公正だったので、自分にも責任があることや、自分一人だけが苦しんでるのでないことを、よく知っていた。ジャックリーヌもまた被害者なのだった――彼女は彼の被害者だった。彼女は彼に信頼していた。それを彼はどうしたのであったか? 彼女を幸福にする力がなかったのなら、なにゆえに彼女を自分に結合さしたのか? 
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