べての人たちに平和あれ……。
 夕映えの光が、静かな地平を取り巻いていた。クリストフは墓地を出た。そしてなお長い間野の中を歩き回った。星が輝いてきた……。
 翌日、彼はまたやって来て、その午後を前日の場所でふたたび過ごした。しかし、前日の黙々たる美しい静けさは元気づいていた。彼の心は呑気《のんき》な幸福な賛歌を歌っていた。彼は墓の縁石に腰をかけて、膝《ひざ》の上に開いた手帳に鉛筆で、聞こえてくる歌を書き取った。かくしてその日は過ぎた。昔の小さな自分の室で仕事をしてるような気がし、母が仕切りの向こうにいるような気がした。書き終えて立ち去らなければならないときになって――すでに墓から三、四歩遠ざかったときに――彼はふと思いついて、またもどって来、その手帳を葛《かずら》の下の草の中に埋めた。数滴の雨が落ち始めていた。クリストフは考えた。
「じきに消えてしまうだろう。それでいいのだ!……あなただけに差し上げます。他のだれにでもない。」
 彼はまた河をも見た。馴染《なじ》み深い街路をも見た。そこには多くの変化があった。町の入口には、古《いにしえ》の稜堡《りょうほ》の跡の遊歩場に、アカシアの木立が植えられるのを昔彼は見たのだが、それがすっかりあたりを占領して、古い樹々《きぎ》を窒息さしていた。ケリッヒ家の庭をめぐらしてる壁に沿って行くと、悪戯《いたずら》っ児《こ》の時分にその広庭をのぞき込むためよじ登った、見覚えのある標石があった。そして彼は、その通りも壁も庭も非常に小さくなったのに驚かされた。正面の鉄門の前で彼はちょっと立ち止まった。また歩き出すときに馬車が一つ通った。彼はなんの気もなしに眼をあげてみた。生き生きした太った快活な若い婦人の眼にかち合った。向こうは彼を不思議そうに見調べていた。と彼女は驚きの声をたてた。彼女の合図で馬車は止まった。彼女は言った。
「クラフトさん!」
 彼は立ち止まった。
 彼女は笑いながら言った。
「ミンナですよ……。」
 彼は初めて会った日とほとんど同じくらいに心を躍《おど》らして(第二巻朝参照)、彼女のそばに駆け寄った。彼女は一人の紳士といっしょだった。背が高く、でっぷりして、頭が禿《は》げ、得意げにぴんとはね上がった口髭《くちひげ》をもっていた。その男を彼女は、「高等法院顧問官フォン・プロムバッハ」――彼女の夫――だと彼に紹介した。彼女は彼に立ち寄ってもらいたがった。彼は辞退しようとした。しかし彼女は叫んだ。
「いえいえ、ぜひとも、寄ってくださらなければ、お食事をしに寄ってくださらなければいけません。」
 彼女はたいへん高い声でたいへん口早にしゃべりだして、尋ねられるのも待たずに、もう身の上話を始めていた。クリストフはその快弁と声音とに耳鳴りがして、半分くらいしか聞き取れずに、彼女の顔をながめていた。それはまったくあのかわいいミンナだった。はなやかで、強健で、全身がはちきれそうに太って、きれいな皮膚、薔薇《ばら》色の顔色、だが顔だちは太く、鼻がことに丈夫で充実していた。身振り、態度、優しさ、すべてが以前のままだった。ただ容積が変わっていた。
 彼女はなお話しつづけていた。昔話や、打ち明け話や、夫に愛し愛されてるありさまなどを、クリストフに語った。クリストフは当惑した。彼女は無批判な楽天家であって、自分の町や家や家庭や夫や自分自身を、完全でもっともすぐれたものだと思っていた」――(少なくとも、他人の前にいるときには)。彼女は夫の話をして、「これまで見た人のうちでももっとも堂々たる人物」であるとか、「超人間的な力」をもってる人であるなどと、その面前で言っていた。その「もっとも堂々たる人物」は、笑いながらミンナの頬辺《ほっぺた》をつついて、「卓越した女」であると、クリストフへ断言していた。この高等法院顧問官は、クリストフの身の上を知っているらしかった。そして、一方に彼の処刑があり、他方に彼をかばってる高貴な保護があるので、敬意をもって彼を取り扱うべきか、あるいは敬意なしに取り扱うべきか、はっきりわからないらしかった。で結局両方を交えた態度で取り扱おうと決心した。ミンナのほうは始終口をきいていた。自分のことをクリストフへ十分述べつくすと、こんどはクリストフのことを話しだした。彼が尋ねもしないのに非常に打ち解けた事柄まで話して聞かしたと同様に、きわめて打ち解けた事柄まで尋ねかけて彼を困らした。彼女は彼に再会したのをたいへん喜んでいた。彼の音楽については何にも知らなかったが、彼が有名になってることは知っていた。昔彼から愛されたことを――(そしてそれをしりぞけたことを)――ひそかに誇りとしていた。冗談の調子でかなり露骨にそのことをもち出した。彼女は自分の写真帳《アルバム》に彼の自署を求めた。彼女はパリーのことをしつ
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