――一八八九年だ。
 ――いや、一九〇九年だ。――とだれかが答えた。
 彼女は自分が思ってたよりも二十年も年上なのにがっかりした。
「もうおしまいだ。それなのに私はほんとうに生きたこともなかった。この二十年間を私はどうしたのだろう? 自分の生涯《しょうがい》を私はどうしたのだろう?」
 彼女は自分が四人[#「四人」に傍点]の娘となってる夢をみた。四人とも同じ室に別々の寝台に寝ていた。四人とも同じ身長であり同じ顔だった。けれども、一人は八歳で、一人は十五歳で、一人は二十歳で、一人は三十歳だった。伝染病が流行していた。三人はもう死んでいた。四番目の者は鏡を見ていた。恐怖に襲われていた。鏡の中の姿は、鼻が細り顔だちがやつれていた……彼女も死にかかってるのだった。――もうそれでおしまいになるのだ……。
 ――自分の生涯を私はどうしたのだろう?……
 彼女は涙を浮かべながら眼を覚《さ》ました。けれど悪夢は夜が明けても消えなかった。悪夢は事実だった。彼女はその生涯《しょうがい》をどうしたのだろうか? だれがそれを奪い取ったのだろうか?……彼女はオリヴィエを恨みだした。オリヴィエこそは罪なき共犯者――(罪がないとて、害が同じならどうにもならない)――彼女を圧倒する盲目な掟《おきて》の共犯者である。彼女はそのあとで、彼を恨んだことをみずからとがめた。なぜなら彼女は善良だったから。しかし彼女はあまりに苦しんでいた。そして、彼女に結びついて彼女を害してる男、みずからも苦しんではいるものの、やはり彼女の生を窒息さしてるその男、それを彼女は復讐《ふくしゅう》のためにさらに苦しませずにはいられなかった。その後彼女はますますがっかりしぬいて、自分で自分が厭《いや》になった。もし自分自身を救い出す方法が見出せなかったら、なおいっそう悪いことをするようになるかもしれない気がした。彼女は自身を救い出す方法を、周囲に手探りで捜し求めた。あたかもおぼれる者のようになんにでもすがりついた。多少とも自分の物であり自分の作品であり自分の存在でありさえすれば、その何物かに、なんらかの作品に、なんらかの存在に、心を寄せようと試みた。知的な仕事をまた始めようと努め、外国語を学び、論説や短編小説を書き始め、絵画や作曲を始めた……。でもすべて駄目だった。最初の日からもう落胆した。あまりにむずかしかった。それに、「書物や芸術的作品なんかがなんだろう? 私がほんとうにそれを好きかどうかもわからないし、それがほんとうに存在してるかどうかもわからない……。」――ある日などは、彼女は元気に話をし、オリヴィエといっしょに笑い、二人で話してる事柄に興味を覚えてるらしい様子をし、みずから気を紛らそうとした……。がそれも駄目だった、にわかに不安が襲ってき心がぞっと冷えきって、涙も出ず息もつけずに、たまらなくなって身を隠した。――彼女はオリヴィエにたいする自分の計画を一部なしとげた。オリヴィエは懐疑的になり社交的になった。けれどそれも彼女には別にありがたくなかった。彼女は彼を自分と同じく弱者だと思った。ほとんど毎晩二人は外出した。彼女は自分の苦しい倦怠《けんたい》を、パリーのあらゆる客間にもち運んでいた。彼女のいつも武装してる微笑の皮肉さの下にそれを見てとる者は、だれもいなかった。彼女は自分を愛してくれて深淵《しんえん》の上にささえ止めてくれる者を、捜し求めていた……。けれど駄目、駄目、駄目だった。彼女の絶望的な呼び声に答えてくれるものは、何もなかった。ただ沈黙ばかり……。
 彼女は少しもクリストフを愛してはいなかった。彼の粗暴な態度や、気にさわるほどの淡白さや、ことにその無関心さなどを、我慢できなかった。彼を少しも好きにはなれなかった。けれど、少なくとも彼は強者で――死を超越した岩石であることを、彼女は感じた。そして、その岩にすがりつきたく、波の上に頭をつき出してるその游泳者に取りつきたく、もしくは自分といっしょにそれをおぼらしてしまいたかった。
 それにまた、夫をその友人らから分離させただけでは足りなかった。友人らを夫から奪い取らなければいけなかった。女はもっとも正直な者でも、時とすると一種の本能に駆られて、自分の力の及ぶ限りを試みんとし、さらにそれ以上のことをやってみるものである。そういう力の濫用のうちでは、彼女らの弱さは一種の強みとなる。そして女が利己的で傲慢《ごうまん》であるおりには、夫からその友人らの友情を奪い取ることに、よからぬ楽しみを見出す。その仕事は訳なくやれる。少しの秋波を送るだけで足りる。男は実直であろうとなかろうと、投げられた餌《えさ》を噛《か》むだけの弱さをもたない者はほとんどない。いかに親しい誠実な友でも、相手を欺くことを、実行ではよく避け得るかもしれないが、頭の中ではた
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