いの……。ほんとに力の無駄《むだ》使いだわ。ムーネのような人がどんな取り扱いを受けたか、みてごらんなさい。生涯《しょうがい》の間何を演じさせられたでしょう? 生き甲斐《がい》のある役と言ったら、オイディプスやポリュエウクトスなどきりだわ。その他はほんとにつまらないものばかり。しかも彼にとっては、偉大な光栄な事柄でたくさんすべきことがあったのを考えてごらんなさい……。フランス以外だって同じことだわ。デューゼのような人がどんな取り扱いを受けたでしょう? どんなことに生涯を費やしたでしょう? ほんとに無駄な役ばかりしたんじゃなくって?」
「君たちのほんとうの役は、」とクリストフは言った、「力強い芸術品を世の中に押しつけることだ。」
「いくら骨折っても駄目なことよ。骨折るだけの価値もないわ。そういう力強い作品も一度舞台にかかると、その偉大な詩を失って、虚偽なものになってしまうのよ。観客の息がそれをしなびさしてしまうのよ。息苦しい都会の臭い巣の中にいる観客は、広い大気や自然や健全な詩というものが、どんなものだかもう知ってやしない。あの人たちに必要なのは、私たちの顔みたいに塗りたてた詩ばかりよ。――ああ、そのうえ……そのうえ、なお、成功したとしても……それだけでは生活が満たされやしないわ、私の生活が満たされやしないわ……。」
「君はまだやはり彼のことを考えてるんだね。」
「だれのこと?」
「わかってるじゃないか。あの男のことさ。」
「そうよ。」
「だが、たとい君がその男を手に入れたとしても、またその男が君を愛してくれたとしても、実際のところ、君はまだ幸福にはなれないだろうし、苦しみの種をいくらも見つけるだろうよ。」
「まったくよ……。いったい私はどうしたんでしょう?……ねえ、私はあまり戦って、あまり自分を苦しめて、もう落ち着きを取りもどすことができず、自分のうちに不安をもってるのね、何か熱病を……。」
「そんなものは、困難をなめない前にも君のうちにあったはずだ。」
「そうかもしれないわ……そう、小さな娘の時分からもう……私はそれに苦しめられてたのよ。」
「いったい何を君は望んでるの。」
「わからないわ。自分にできる以上のことをでしょう。」
「僕にもそんな覚えがある。」とクリストフは言った。「青春のころはそうだった。」
「でもあなたは、もう一人前の男になっていてよ。私はいつまでたっても若者に違いないわ。不完全な者だわ。」
「だれだって完全な者はないさ。自分の力の範囲を知ってそれを愛することが、すなわち幸福というものだ。」
「私にはもうできなくてよ。その範囲から出てしまったんだもの。私は生活に痛められ疲らされ駄目にされてるのよ。それでも、皆の連中のようでなくて、普通の健全な美しい女になることもできたかもしれないと、そんな気がするのよ。」
「君は今でもまだなることができる。僕にはそういう君の姿がよく眼に見える。」
「ではどんなふうにあなたの眼に映ってるか、それを言ってちょうだいね。」
彼は、自然ななだらかな発展をとげて愛し愛される幸福な身になれる条件のもとにおける、彼女の姿を、いろいろ話してきかした。彼女はそれを聞くのが楽しかった。しかし聞いたあとで、彼女は言った。
「いいえ、もう今じゃ駄目よ。」
「そんなら、」と彼は言った、「あの老ヘンデルが盲目になったおりのように、みずからこう言うがいい。」
[#「あるものはみなよろし」の楽譜(fig42597_02.png)入る]
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(あるものはみなよろし)
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そして彼はピアノのところへ行って、それを彼女に歌ってきかした。彼女はそのとんだ楽天家を抱擁した。彼は彼女のためになっていた。しかし彼女は彼の害になっていた。少なくとも彼女は、彼の害になるのを恐れていた。彼女は絶望の発作に襲われることがあって、それを彼に隠し得なかった。愛のために彼女は気が弱くなつていた。夜、二人相並んで床についてるとき、彼女が無言のうちに苦悶《くもん》をのみ下してるとき、彼はそれを察するのであった。そして、すぐそばにいながらしかも遠い彼女に向かって、その圧倒してくる重荷を自分にも共に荷《にな》わしてくれと願った。すると彼女は逆らい得ないで、彼の腕の中で泣きながら、自分の苦しみを打ち明けた。そのあとで彼は幾時間も、親切に穏やかに彼女を慰めた。しかしその絶えざる不安は、長い間には彼女を打ち負かさずにはいなかった。自分の焦慮がついには彼へも感染しはすまいかと、彼女は恐れおののいていた。彼女は彼を深く愛していたので、自分のために彼が苦しむという考えに堪えられなかった。彼女はアメリカへの契約を申し込まれていた。むりに立ち去るためにそれを承諾した。恥ずかしい気持でいる彼と別れた。彼と同じくら
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